アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

再訪 インターメディアテク

久しぶりに行ったら博物館のこの、いろんな物が混在している感じとてもいい!となった。

www.intermediatheque.jp

 

特別展示『都市 − ヱドキリエズ』
2024.03.06-2024.06.02

特別公開『モース日本陶器抄 – 東京大学コレクションから』
2023.11.21-

常設展示『Made in UMUT – 東京大学コレクション』
2023.06.27-

常設展示『ギメ・ルーム – 驚異の小部屋』
2015.10.02-

 

今回まずびっくりしたのがすごくでっかい映写機がどーんと置いてあったこと。昔の東大の教室に置いてあったそうだけど、だいぶ場所取るね。(笑)

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ここの展示が面白いのはジャンルを1つや2つに絞ってないところ。だから古代イランのガラスの隣に昔の東大の先生の銀貨コレクションがあったりする。だからこそ、特定の何かに興味を惹かれて訪れたわけではなくても、知らないもの、興味なかったものへの接点として優秀。博物館の醍醐味だと思った。普段行く美術館は企画展が多いから。

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東大の先生たちが研究の成果や趣味として残したコレクション、やはり皆さんオタク気質というか、集めてるね(笑)モース先生が日本で集めた陶器なんか、小物が多いけどそれぞれ味わいのあるもので、わざわざへこみを作ったり西洋の陶器と全然違う!と言っていたそうだけどなんだかんだで好きだったのね、というのがあふれてた。

 

これなんだろね。

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東京駅すぐだし無料だし、みんなもっと行ったらいいよ!

 

静嘉堂文庫竣工100年特別展 画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎

静嘉堂文庫竣工100年 ・ 特別展

画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎
「地獄極楽めぐり図」からリアル武四郎涅槃図まで
2024年4月13日(土)~6月9日(日)

www.seikado.or.jp

 

正直なんの予備知識もなくふらっと行ったので、相変わらずこういう系統の受信感度の鈍い私には、へえ~みたいな感想しか出てこないのだけど、国宝の曜変天目は今回も拝んできたよ(笑)

 

幸せそうな涅槃図。

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これら実物が涅槃図に描かれてる。
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ここの美術館、展示点数が少なくて気軽にさくっと見られるのが逆に良い時もある。(物足りないこともある)

今回は4室のうち2室は撮影可だったので、おもしろいと思ったものは写真に残してきた。残念ながら曜変天目はダメです。

 

ショップに行くと曜変天目のTシャツとか、てぬぐいとか、ぬいぐるみ(ぬいぐるみです!)とかあって笑ってしまうのだけど、実際の売れ行き気になる。

 

没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる

木村伊兵衛の写真好きなんですよね。

topmuseum.jp

没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる
2024.3.16(土)—5.12(日)@東京都写真美術館

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見たことある写真もあったけど、同じ写真でも見る側の条件は変化するので、時間をおいて何度も見るのもいいものだ。

今回印象深かったのは沖縄の写真。当時の沖縄の人々の表情、服装、生活が、写真から生き生きとわかる。木村伊兵衛は本当にごく普通の人々を撮るのが好きで、上手かったんだあ。

1930年代という撮影された時代を考えると、その後にやってくる沖縄戦を経て彼らがどう変わってしまったのだろうと想像して辛くなる。こんな普通の日常が完全に壊されてしまう戦争の怖さを思い、写真を見るというのは、写っているものだけを見るのではないのだなと気づく。

そして戦中になると、木村伊兵衛の写真も、プロパガンダ的な使われ方をするに至る。本当に戦争とは罪深い。

 

新たに見つかったという中国での写真も興味深かった。動物園のパンダもあったりして。伊兵衛さんも西湖に行ったのねえ。

 

国や地域、その時代、こういう雰囲気だったんだな、というのがよくわかる写真たち。とてもよかった。

 

ROH in シネマ『マノン』

2月にパリオペ来日公演でどっぷりとマノンの世界に浸ったので、その記憶を上書きしたくない気持ちがあり、最後の最後まで観に行くか迷った今回のロイヤルバレエ団『マノン』。主役ペアがオシポワとクラークというのも迷いが深まる理由だったのだけど、しかし結果的には観てよかった。

全然違うから上書きされないし、同じマクミランの『マノン』なのにずいぶん違うものだとあらためて面白かったし、そしてなによりオシポワの自由さに圧倒された。オシポワはやっぱ強い!

 

ロイヤルってほんと許容範囲広いよね。毎度感じる。身体条件も幅広いし、演技の比重が高い分、ダンサー個人の性格や個性がより舞台上にも表れやすい気がする。素の性格そのものが出るというよりは、どこまで濃くキャラクターを演じるかの違いかも。

 

いやあ、パリオペって、ほんと美しいのね。感情の昂った場面であっても美しさを損なわないパリオペと、感情や演技を優先するロイヤル。雑(にも見える)になることが感情表現の一種でもあるのかもしれないが、ここは違うなあと思った。(どっちがいいとか正しいではなく)

 

ロイヤルはサブキャラも設定が濃い。レスコーがやけに暴力的に見えたり、レスコーの愛人の野心が見え見えだったり、ムッシュGMのエロおやじっぷりもさすがのギャリーさんだったし、全体的に人間味あふれる。一方パリオペは抑制が効いてる。やりすぎない美。これはもうカンパニーの持ち味や矜持の違い。

 

オシポワのあの自由さは凄い。型にはまらない。そしてあの自由を尊重する度量も凄い(笑)1幕寝室で兄とGMとのパドトロワ、この段階から攻めかよ!かと思ったらGMに対してめっちゃ嫌そうだし!と面白い。オシポワのマノンはその辺にいそうであり、生き生きと生命感に溢れ、見ていて飽きない。

クラークのデ・グリューもまた、その辺にいそうな青年。高校のクラスで一番のイケメン、みたいな、そういう親近感ある。ちょっとボッレを思い出した。容姿のタイプ似てない?イケメンというより”ハンサム”という形容が似合うというか(笑)

 

二幕の娼館であんなに女王っぷりを満喫してるマノン初めて見た!(笑)デ・グリューを目にするのは嫌だけど、それ以外では自分が得た贅沢と羨望のまなざしをめっちゃ楽しんでいる。男たちがみな自分の虜になるのをみて大満足だし、男たちも、マノンの手を握っちゃったよ!!みたいな演技しててよかった。そして他の娼婦たちの野心もバリバリでよい。

 

インタビューでラウラが、娼婦、高級娼婦、愛人を踊り、そしてマノンに抜擢されたと話してたが、そういう積み重ねがロイヤルの強みだよね。どの役を演じるにせよキャラの解像度が高い。あとロイヤルは若い人がメイクで老人を演じるのではなく、実年齢の近い人が舞台に乗ってるところも全体の雰囲気の厚みになってると思う。(引っ越し公演ではその辺は仕方がないが)

 

酷い話なので三幕は苦手なのだが今回はそこまでじゃなかった。そして瀕死であっても内から溢れる熱量でつき動かされるオシポワマノンの演技が素晴らしかった。

あのオシポワの自由さとエネルギーを受け止めるには、体格のいいリースくんなんだろうなあ。全然期待してなかったんだけど(すまぬ)、予想より良くて観に行ってよかったよ!こういうことがあるから「迷ったら見ておけ」なんだよねえ。

 

とても良かったのだけど、同時にミリアムとマチューの残像が脳内再生され、あの舞台に立ち会えて本当に良かった…とも思いながら観たのであった。生の舞台はやっぱり別格だもんね。

 

それにしても踊る人によって毎回こんなにも違って見える、そして初演から50周年とのことだけど全然古くない、変化と自由を許容する余白があるからこそ作品が長く愛されるのだろうなと、改めて思ったのであった。

 

Call Jane(コール・ジェーン)

映画『コール・ジェーン -女性たちの秘密の電話-』公式サイト

 

1960年代のアメリカ、妊娠の継続によって自分の命が危険にさらされるというのに、病院のお偉方(全員男性)によって中絶する選択肢をあっさりと却下されるジョイ。

 

まだ生まれてもいない胎児の命は重視するのに、いま、目の前にいる生きている女性の命のことはなんだと思っているのかと本当に腹が立つ。現代アメリカでも起きていることで、この時代に戻そうとする勢力の存在が恐ろしい。

 

ジョイはもともと優秀な学生だったのに、弁護士をしている夫との生活では”裕福なハウスワイフ”。能力を活かす場は家庭に限られていたのだよね。そして妊娠したことにより命の危険にさらされる。そして自分以外にも様々な理由で望まない妊娠をし、表立って中絶手術が受けられないために行き詰まる多くの女性たちの存在を知る。

 

『あのこと』(アニー・エルノー原作の小説の映画化)では、妊娠した若い女性が受ける違法で辛い中絶処置を非常に直視させられてかなりきつかった。しかしあれが当時の女性たちの現実だった。L'Événement(あのこと) - アートなしには生きられない

一方『コール・ジェーン』では処置自体は比較的軽く描かれていて、肉体的辛さよりも女性の権利が女性自身から奪われていることへの問題提起と、女性自身が社会や男性に立ち向かうという面が強調されている。そして実際、社会の方が変わったんだよね。とはいえ軽さがちょっと気にはなった。

 

いくつか感想を見たら、全然伝わってないなーっていうのがあって、あの理不尽な扱い、自分のことを自分で決める権利を奪われている憤り、違法であっても他に選択肢がないという追い詰められた状況、などをこの映画を見てもなお想像できない人がいるんだなと、むなしくもなる。男性にとってはどこまでも他人事で、”法は守るべき”が優先されるんだろうか。その結果、女性の人生はどうなると思っているのか。それが運命と受け入れろというのか。そこに一石を投じている映画なのにね。

 

日本の公式で使われてる画像がどうも納得がいかないので海外版貼っとくね。

calljane

 

Oppenheimer(オッペンハイマー)

日本公開前からさまざま話題になっていた本作。

www.oppenheimermovie.jp

のちに”原爆の父”となったオッペンハイマーが指揮したロスアラモス研究所とその成果、そしてその成果がオッペンハイマー自身や世界にもたらしたもの。

 

ざっくりとした感想をまず言うなら、大作である割に(そして賞レースでも評価された割に)さほど後に残るものがなかったような。(これは好みの問題)そうだったのね、という淡々とした気持ちと、翻って同時代の日本はどうであったか、同時代を描いた邦画はどうであるか。暗澹たる気持ち。

 

科学者たちが発見や研究に夢中になり、敵対国との競争に勝とうと夢中になるのはまあわかる。戦時下となれば平時とは違った圧力があるだろうし、”高揚感”みたいなものもあるんだろう。そして研究し開発し実験し、それが完成してしまえば、それをどう使うか決める場からは締め出される。締め出されて初めて、そして自分たちが作り出したものが現実に使われて初めて、事の大きさに気づく。まあありそうな話だし、そうだろうなと思う。

 

オッペンハイマー個人がどう思っていたかというのにはあまり興味はなくて、というのも彼の本心は、その後の人生の間に考えが変わることもあったろうし、不当な扱いを受けたことも結局のところ政治に翻弄されたわけだし、本人にしかわからないこと。懺悔するべきとは言わないが、自分が主として関わった技術が世界を変える武器となり、それによって22万人が死んだ、それについて、別に全然気にならない、となるとすれば倫理感ぶっこわれてるよね。

ただオッペンハイマーに場合、その後糾弾され、尽くした国や世間からの評判も失い、FBIの調査対象となり続けたのであれば、そのことはもしかしたら罪悪感を軽減したかもな、とも思う。

そしてまた彼が聖人のようには描かれておらず、長所も短所もある人間で、ある人間が特別な才能と権力を持った時、どう制御が効くか効かないか、効かなかった場合の怖さのことも思う。(規模は違うがイーロンマスクとか)

 

またアメリカという国が原爆の日本への使用を正当化するのは、当時はそうであったとしても、こういう映画が作られるくらいには年月が経ち、人々の考えにも幅が出てきているということなのかも。まあこの点についてはきっと、いつまでたっても平行線な気はするけど。

 

科学者らが”よかれと思って”開発したものが、想定外のマイナスの影響を与える可能性は常にあるし、今なら例えばAIとか、その危険性に言及する人とそうでない人の両派がいる。GAFAなどを見てきて彼らは、これもできるあれもできるこんなに便利になる!何が悪いの?という傾向があると感じるが、今に始まったことじゃないんだろな。性(さが)なのか、文化なのか。

 

それにしても、よくもまあ、ああいう国(当時のアメリカ)を相手に戦争なんかしましたよね当時の日本。まったく呆れる。彼らがああいう生活をし、ああいう研究をしていた同時期、日本人の生活はどうで、どんな研究をしていただろうか。そしてそれを振り返って映画など作品にしようとしたとき、それぞれどんな描き方をしているだろうか。

 

どこを切り取り、何を誰を描き、観客に何を伝えようとしているのか。それを考えたとき、当時の科学技術力の差と共に、現在に至るまでの過去の振り返りや文化力にも、差を感じてしまう。残念ながら。

 

物足りなさを感じつつ、こういう作品が作られない世の中よりは、よかった。

 

La nuit du 12(12日の殺人)

2022年のセザール賞を獲っているという本作。

12th-movie.com

 

救いがない。若い女性被害者クララと、次々に浮かび上がる怪しい男性ら。

クララの親友ナニーが、捜査の指揮を執るヨアンから受ける質問に涙する場面がある。クララは悪いことはしていないのに、まるで彼女に責任があるかのようだと。

警察だけでなく”世間”も、被害者に落ち度があったのだと思いたがる。特に被害者が女性だった場合は。

 

誰が殺したのかという犯人捜しの面と、犯人を探し出し捕まえようとする”正義”の側の人間の人間臭さの面。なかなか犯人に辿り着けないことに追い詰められたり、プライベートで問題を抱えていたり、捜査に先入観や偏見があったり。現実もきっとそうなんだろうな…と思わされる。捜査員は完全無欠の集団ではなく、それぞれに弱い面を持ち、正義感があり、同時に偏見もある。人間とはこういうものなんだろう。だからこそチームや組織である必要があって、互いに影響や監視を交換しながら、難題にあたっていく。そしてそこが男ばかりというのは、やっぱりよくない偏りであると、本作では明確に言っていると思う。

 

未解決のまま3年が経ち、再捜査を命じるのは新たな女性の判事。そして事件当時にはいなかった女性刑事もチームに加わっていた。その女性刑事が、男が罪を犯し、男が捕まえる、男の世界。といったことをつぶやく。まったくほんとにその通りだ。まったく。

そして未解決のままになった事件をトラウマのように抱えているヨアンも、容疑者となった男たちの誰もが犯人足り得るし、関わった男たちみんな犯人であり、なんなら関わってない男もみな加害者であると言った。(正確なセリフではない)あのヨアンの悟ったような、諦めたような表情。無力感。

 

この映画の参考になった実際の事件も、この映画も、未解決のままだ。フランス国内でのDVで多くの女性が殺されているというニュースを見たこともある。

どうしたらこういう犯罪を防げるのか、犯罪者を生まないために何かできることはないのか、大事な人をあんな悲惨な形で失った人たちの痛みはどれほどのことか。

そう考えると同時に、きっと不可能なんだろうとも思い、暗い気持ちになる。

 

Anatomie d'une chute(落下の解剖学)

久しぶりの映画。

ジュスティーヌ・トリエ監督作、これ去年のカンヌのパルムドール受賞作だったのね。

gaga.ne.jp

 

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、
次第にベストセラー作家である
妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、
視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、
登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。

 

うまく作られてる。最初の場面ですでにちょっとイライラさせられるのよね、爆音の音楽と話題をずらし続けられる会話によって。サンドラに対して負の印象から入り、彼女が夫を殺したのでは?と疑う側の目線に自然と立たされるような。

 

サンドラはドイツ人で、夫はフランス人で、夫婦間の会話は英語。住んでいるのはフランス。ロンドンから引っ越してきた。視覚に障害のある息子ダニエルがいる。

 

自宅山荘の3階から落ちて死んだ夫の死因は、事故なのか自殺なのか殺人なのか、サンドラが被告となった裁判の法廷でのやりとりが多く描かれる。

事件の捜査、その後の裁判における様々な証言によって、サンドラたちの”リアル”が公の場にさらされていく。

 

サンドラはよくあるいわゆる”女性らしさ”で他人から好印象を得ようとしたり、泣き叫んでみたり泣き落としを試みたりするタイプではない。さらに、不倫していたことなどで”正しい母親像”からも遠い。それゆえに、もし実在したら、きっと世間から有罪扱いをされるんじゃないかと思う。(例:ワイドショーにおいて同情を誘うタイプからほど遠い)さらにサンドラの場合、外国人がフランスで裁かれるという不利もある。

 

そして終盤に法廷で流される、事件前日の夫婦喧嘩の録音音声。ここで語られている内容というのは、あれを聞いたらもう、私からしたら夫は自殺一択である。妻があの夫を殺す動機がない。サンドラの直球が刺さりまくってしまった結果だ。(全く同情しないが)

 

あの場面で夫が妻に投げる言葉の根底にあるのは、「なんで男の俺が」「俺は男なのに妻の方が仕事で成功しているのは納得がいかない」みたいな、そういうゆがんだ被害者意識だし、監督は意図的にそれを描いたと思う。夫の仕事のために妻が自分の仕事ややりたいことを諦めるだとか、妻の方が子供や家の世話に大半の時間を費やす、なんていうのは「当たり前」として受けとめられていて、それゆえに、男性は逆の立場になった自分を受け入れるのが難しい。たぶん、夫婦が仮に完全に半々だとしても(半々の判断もその実現も超難題だけど)、男性側からすると「自分が譲っている」になるんだろう。ほんとは8:2とか7:3であっていいはずなのに!という。

 

夫が妻に求めるもの、妻が夫に求めるもの。夫婦の関係では何が”普通”で、そもそもなんで夫婦なのか。家庭内で求められる役割には今も男女差があるのが現実だし、それに沿うのが自然で当たり前で不満がない人もいれば、もしかしたらカップルの片方は不満かもしれない。子供とのかかわりや仕事や不倫など、同じことでも男女で重さや評価が違っている現実のことも描いている。

 

サンドラ役のサンドラ・ヒュラーが素晴らしい。サンドラがか弱く見えたり世間に媚びたりせずに、むしろ反感を抱かせるような演技ができるというのは強い。そして現代的だ。最後まで自分らしくいてくれてほんとよかった。さらに息子ダニエルと愛犬スヌープ!すごい。どうやって演じてるの!

 

アカデミー賞にノミネートされてるらしい。どうなるだろね。

 

はあ、おっきいワンコと暮らすのいいなあ。(そこか)

 

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パリ・オペラ座バレエ団来日公演2024、その余韻

パリオペが東京にいた2週間、濃厚だった…そして祭りの後の寂しさ。脳内ではマノンの黒ドレスのワルツがぐるぐる。

公演中に思ったことを覚えているうちにメモっておきたい。というのも今回コール・ド・バレエがとても良かったので。

 

ヌレエフ版の『白鳥の湖』は男性コールドの活躍の場面も多い。特に一幕はきっとめちゃくちゃハードで、あれを連日、時にはマチソワ踊るというのは相当に重労働なのではないかと想像。

今回の来日メンバー、おそらく若いダンサーも多くて名前と顔が一致しない人も多々いたのだけど、コールドの主要ポジションにはちゃんとベテランが配置されていて、あの男性群舞を引き締めていたと思う。ジョゼ監督の采配よね。

特にミリアムと同世代のシリル・ミリティリアン、彼はインスタでもよく見ていることもあって、1995年に初めて日本公演(学校公演かな)で来てからおそらく今回が最後になるだろうけど、たくさん観られてよかった。他にもフロリモン・ロリュー、ダニエル・ストークス、ファビアン・レヴェイヨン、ヤン・シャイユら。

バレエにおいてコールドの重要さというのが本当のよくわかる。複雑な振付や隊形をこなしながらあの舞台上の統一感。はんぱない。

あと踊っているアルチュール・ラヴォーを久しぶりに観られたこともよかった。エトワールを目指せる時期にケガをしてしまって、それ以来キャラクター的な配役も多く、ガンガン踊っている印象がなかった。今回は一幕のパ・ド・トロワ、三幕のスペインを踊ってたので、配役次第なのだな。『マノン』での看守も、ああいう役は若手には難しい。

若手だと、おおあれがエンゾくんか、と目を引くものがあったけど、どこかで読んだけど、ジョゼ監督からはもうちょっと真面目にやるようにと言われたようで(AROPの受賞の時かな?)、持って生まれた恵まれた身体や才能を活かすための継続的な努力が課題なのだろうな。他の人ほど努力しなくてもある程度できてしまう人というのはいて、そしてそれでいいと思ったらそこで終わりなんだよね。性格も大事。

 

女性のコールドは白鳥でその実力と迫力を存分に見せてくれた!あれだけのまとまりと、連日気合の入ったやっつけでないコールドというのはなかなかないのでは。(私がロシア系に冷めてしまうのは「仕事ですから」がめっちゃ出てるからというのもある)

白鳥たちの中でも目立っていたのがカン・ホヒョン。美しいラインと音楽性でつい目が行ってしまう吸引力がある。カミーユ・ボン、ビアンカ・スクダモア、オーバーヌ・フィルベールあたりが並ぶと、個々の良さ美しさに加えて、集団としての強さ野心みたいなものが見える気がした。白鳥としても、ダンサーとしても。それぞれが主役を踊ってももおかしくないレベルだもんね。そりゃ迫力も出るというもの。

そして24羽の白鳥の、ちゃんと一人ひとりが人間であった感のある踊りというのが、私はとても好きだ。ちゃんと内に秘めた物語があるというか。怨念があるというか。

白鳥のコールドって、やもするとマスゲーム的な統一感を目指してそうなバレエ団や、それを”揃ってる”と褒める観客という図があると思うのだが、何度も書いてることだけど、ミリ単位で揃えることにまーーーたく価値を感じない私が求めているのは今回のパリオペ白鳥のようなコールドである。

あれをやるには、まず、ダンサーひとりひとりがちゃんと大人でなければならない。今回のパリオペメンバー、若いダンサーもいたと思うけど、幼さ未熟さを”魅力”とするような人はいなかったはず。実年齢の問題じゃないんですよ。そしてメソッドとしての統一感、同じ音楽を聴いて同じ呼吸で踊る。よく見ればダンサーらの身体条件はそれぞれ結構違うし、骨格も髪の色も様々よね。しかし生まれる統一感がどこからきているのか。そして日本のカンパニーはコールドバレエに何を求めているのか。考えなければいけないテーマなのでは。

 

これすごく難しい話なのはわかっていて、フランスという国に雇われているパリオペダンサーの社会的地位と、アルバイトしながらチケットノルマも抱えつつ舞台に立つ日本の多くのダンサーを同じ基準で評価できるのかという話でもあるし、未熟さや幼さが”魅力”とされたりそれを防御手段として使うのが処世術であったりもする社会で生きている人と、そうではない社会で生きている人の違いであったり、舞台芸術をとりまく環境の違いであったり、単にカンパニーやダンサーのレベルでどうにかできることでなかったりするので、変われるかというと、無理なのかもしれない。社会の問題でもある。集団のために個を犠牲にすることを美談にしがちだとか、そういった社会の持つ認識の違いなども。

で、私はたまたまパリオペから見始めてパリオペが基準だけど、日本のカンパニーが好きでその個性を気に入っている人もいるだろう。

ただそういう様々な要素によって、白鳥のコールドやマノンの娼館での差が出るのだと私は考えている。また、マノンという役の女性像にも影響は大きいだろう。(新国で観たときの衝撃。。)

 

それにしても前回来日からのこの4年でずいぶんパリオペのダンサーも多彩になった。白鳥の主役をアジア人のパクさんが2公演も務めたなんて、きっと10年前だったら信じられないことだっただろう。新エトワールのギヨームくんは黒人初のエトワールと言われているけど、パクさんもギヨームもその実力で文句を言わせない。ちゃんと実力で評価されている、ということがカンパニーとしても重要だと思う。そして観客側も、ダンサーの踊りの素晴らしさをちゃんと観て行こう。

 

思い付きだけど、コールドが良かったのってプルミエ/プルミエールへの昇進がコンクールではなく任命制になってるのもあったりするかな。スジェのクラスが一番多忙な気がするのだが、コールドの主力だから毎日踊らなきゃいけないし、その中でソリストの準備もする。日々の準備と舞台をジョゼ監督が観ていてそれを根拠に昇進させるのだから、きっと気合も入ることだろう。今回の白鳥コールドではそういういい意味での緊張感がよい効果になっていたのかもしれない。

 

いいパフォーマンスを、ちゃんとわかってくれている観客だ、というのはこの先もパリオペが来日してくれるかどうかに大きな影響があるだろう。日本が相対的に貧乏になってきているのでチケット代は高くなる(日本人にとっては高く感じられる)し、好条件を提示したアジアの他国がでてきたらそっちに行く方がいいやって思われてしまうかもしれない。

今回、一番安いカテゴリでも1万円だったと思うのだけど、これは高すぎるよねえ。1階全部がS席というのも設定がおかしいし。1階席の中で3段階くらいカテゴリ作っていいいと思うし、最良席はプレミアシートとして高値をつけていいと思う。その代わり、見切れるところは安く、遠ければ安く、としてほしい。

若い人、初めて観てみようと思う人が買える値段でないと、バレエ観客の高齢化でいずれ減っていくので…。

 

そして今年は世界バレエフェスティバルもある。私は今回のパリオペにだいぶ資金を投入してしまったので、他はいいかなあという気分。そもそもお値段でびっくりしたよね!ガラ36000円!

パリオペのチケットを買う人も、バレエフェスのチケットを買う人も、ほぼ同じ人だと思うのよ…大変だよ…。祭典会員なのでAB1回ずつは観に行くけども。そしてパリオペからの出演者も、いまのところあまり惹かれておらず。。マチアス呼ぶならミリアムも呼んでよ。。

そういえば最終日にミリアムにだけ花束を渡していたのはもうすぐアデューだからということだったんだろうか。

 

やっぱりパリオペ好きだー!というのと、パリオペのような世界最高峰を観る機会というのが今後国内では減っていってしまうんだろうなという憂いと。バレエを観て思うことはさまざま。

 

パリ・オペラ座バレエ団来日公演2024『マノン』2/18(マチネ/ソワレ)

とうとう来てしまったパリオペ来日公演最終日。

 

2024年2月18日13時30分

マノン  リュドミラ・パリエロ
デ・グリュー  マルク・モロー
レスコー、マノンの兄  フランチェスコ・ムーラ
レスコーの愛人  シルヴィア・サン=マルタン
ムッシューG.M.  フロリモン・ロリュー
マダム  ロール=アデライド・ブコー

 

いやはや。リュドミラもマルク・モローも素晴らしくて。エトワールって本当に、みんなそれぞれがそれぞれに芸術家。

 

リュドミラの美脚はマノンにぴったり。マノンの美しい脚に魅せられ執着するムッシュGMという振付も大納得である。全身から発せられる音、完璧な足先、知的で賢いマノン。

対するマルクモローのデ・グリューは端正でいかにも神学生な雰囲気で、でもマノンに対してはめちゃくちゃ熱い。

この世の中を生きていくにはお金が必要だと身に染みてわかっているマノンと、お金なんかより愛だけが大事だと猛進するデ・グリュー。そこが不幸の始まり。。。

 

一幕の寝室の多幸感と、同時に冷静さを感じさせるリュドミラマノン。兄レスコーとのやりとりもどこか自然。

そういえばこの回だけの配役だったフランチェスコとシルヴィア、とてもよかった。他の回では感じられなかった自然さや存在感があった。1回だけだったの本当に残念だ。もっと観たかった。

 

二幕のリュドミラ圧巻で、黒ドレスのソロからあの男たちの間を浮遊していく流れ、素晴らしかったなあ!身体で語る、全身で音楽を語る、その身体性と音楽性、技術的な確かさなどが見事に調和して、あの場面になる。うぅぅ、泣く。

 

沼地のPDDはひたすら泣いた。なんというドラマ。

 

今回の配役、ムッシュGMにフロリモン、看守にラヴォーくん、兄にフランチェスコ、愛人にシルヴィアととてもよくて、どうしてこの組み合わせもっと出さなかったのかと不思議。兄レスコーが大事なのはもちろんだけど、まわりも大事。

 

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波立ちまくった心をなだめつつ、ソワレへ。

 

2024年2月18日18時30分

マノン  ミリアム・ウルド=ブラーム
デ・グリュー  マチュー・ガニオ
レスコー、マノンの兄  アンドレア・サリ
レスコーの愛人  エロイーズ・ブルドン
ムッシューG.M.  フロリモン・ロリュー
マダム  ロール=アデライド・ブコー

 

さて。なんと言ったらいいものか。アデューを間近に控えたミリアムと、ほぼ同世代のマチューによる、フレンチスタイルによる『マノン』完成版の一つの形。

おそらくコンディションは万全とはいかなかっただろう。しかしマクミランの演劇バレエをパリオペがやるとこうなりますという姿に、なんとも胸がいっぱいになった。

ふたりとも最後の『マノン』を日本で踊ってくれてありがとう。ひとかけらたりとも忘れたくない。(思い出してまたジーンとしている)

 

一般論として、マノンを”ファム・ファタール”だという言い方、私は好きじゃない。だって結局原作にしたって当時の時代背景にしたって、マノンに勝手に価値を見出してちやほやしてるのは男たちだ。あの時代のあの状況で、「愛か金か」を男が女に迫るなんて勝手にも程がある。勝手に魅惑されておいて「ファム・ファタールだ!」はないだろう。

そしてあからさまな階級社会であって、乞食か娼婦になるしか生きられない人たちがいた。それでも強く生きていた。しかしそれも権力者の一存によって簡単に破壊されてしまう。それがバレエ『マノン』でも描かれている。

 

ミリアムマノンとマチューデグリュー。若くて美しい二人が出会ってしまったこと自体が不幸の始まりだったのだ。とにかくマチューが美しすぎる。あんな目で訴えられたら抗えない。ミリアムの無垢な16歳マノン、その純粋さゆえに、後の不幸を思って胸が痛んでしまう。あまりにも幸せな時間、幸せすぎるがゆえに壊れやすい。

 

二幕、男たちの間を浮遊するマノン。心を無にしているように見えた。この場にいる自分はもはやかつての自分ではない。デ・グリューと出会ったときの自分とは別人なのだ。そう思わなければこの場にはいられない。

その周りを所在なげに、マノンを見つめながら歩き回るデ・グリュー。一幕寝室のPDDでの幸せの最高潮から一転して裏切られたのだからかわいそうではあるんだけど、もしも、もしもデ・グリューがもっと世間を知っていて、あんなゴージャスな宝石やドレスは自分には手に入れられないと身を引いたら、その後のそれぞれの人生どうなってただろう。もちろん、マノンが生き延びたとしてそれがどんな暮らしだったかどうかはわからないが。

 

マチューの、あの怒りと悲しみを湛えた目というのは、これはもう本当に、雄弁で唯一無二の美しさで説得力があって、それゆえにマノンは不幸になってしまう。なんて罪な男なんだマチューデグリュー…。

 

三幕PDDはあまりにも辛く、マノンの命だけでなく公演の終わりが近づいていることにも胸が痛く、生の舞台とはなんと儚いものかと悲しくなった。キャリアの終わりを迎えようとしているミリアムとマチューによる渾身の舞台。ベテランダンサーたちの生き様が現れた舞台に、私はとても弱い。

 

兄レスコーは若手サリが粗野でがさつな感じのレスコーを演じていたが、ここはもうちょっとよい配役があったのではないか。彼には彼の良さがあるとは思うけど。ミリアムにはミュラの方が合ったりしない?そしてパブロが一回で降りてしまったので、パブロでも観たかったな。

愛人のシルヴィアの、ムッシュGMに対するあの踊り方がとても好きで、いつもなんとなく気を抜いて観てる愛人の踊りなんだけど、シルヴィアの回は魅力的だった。(ロクサーヌのは観ていない)

 

実は今回ドロテ・ユーゴ組というファーストキャストを観なかった。私はこれまでどうしてもドロテのこれみよがし感というか、なんか気になっちゃってダメなのよね。ユーゴと組むことが多すぎてそれも気になるし。感想を見るととても良かったみたいなので、見比べたかったような気がしないでもないけど。でもまあ、これまでの入り込めなかった自分を知っているので、今のところ後悔はしてない。

 

ミリアムだけでなく、ドロテもリュドミラもアデューが遠くないので、3人ともこれがきっと最後のマノンだったはず。マチューもきっと最後のデ・グリューだったよね。

 

今回の来日公演、白鳥4回、マノン3回、計7回観た。前回は6回だったので最多更新してしまった。しかも今回は今までより良席にこだわったので出費も最多更新してしまった!後悔はない!

 

ヌレエフ版『白鳥の湖』とマクミランの『マノン』を続けて観て、パリオペのダンサーたちの能力の高さを再確認したし、今回はキャストもいろんなダンサーを配置してくれて、初めて見るダンサーも多かったし、コールドの若手も認識できた。

 

そして作品でいうなら、やっぱりヌレエフ白鳥最高だなーってなったし、やっぱり『マノン』はあんまり好きじゃないかも…となった。

あらためてヌレエフ版白鳥の構成のち密さや複雑さ、難易度の高さを確認し、そしてそれを踊りこなすパリオペのダンサーたちのレベルの高さを見せてくれた。とても満足。

それに比べると『マノン』は、ダンサーたちの演劇的要素がたくさん見られる一方で、踊りに関しては特にコールドは割と単純というか、主役のリフトなど見せ場はあるけども、全体としては雰囲気重視というか、まあそれも魅力ではあるけどね。そして舞台がフランスものをやらせたらパリオペは格別というのもあらためて見せてくれた。

 

日常生活に戻るにはまだちょっと時間がかかりそうだけど、マノンと共にルイジアナの沼で息絶えた我々、がんばって生きていこうね(笑)

 

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