アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

20世紀のポスター[図像と文字の風景]

すっかりご無沙汰していた庭園美術館へ。

 

東京都庭園美術館|20世紀のポスター[図像と文字の風景]|2021年1月30日(土)-4月11日(日)

 

カッコいいポスターの数々、展示点数も多くて充実。大半がスイス、ドイツのものなのでドイツが多く、固有名詞以外ほぼわからないけどそれでも伝わるデザインの力。告知内容はともかくとして、それ自体がアート。

 

チューリヒバーゼルのコンサートのポスターがたくさんあったんだけど、どれもカッコいい。アーティストや楽器の写真などは一切なくて、幾何学的なデザインに必要情報は文字で。フォントもいいんだよね。

これ、つい日本のクラシックコンサートのチラシやポスターの定型的なデザインを思い浮かべてしまった。バレエのチラシも同様だけど、出演者の顔写真などが大きく使われ、情報がたくさん詰め込まれる。いろんな都合や試行錯誤の末に辿り着いた形なのかもしれないけど、正直ちょっと食傷気味。

 

それと比べてかっこいいなー、うらやましいなー、と思いながら見たけど、それも時代で変化していく。

 

ミニマルで、客観性や中立性を重視してきたものが、「客観性とは」「中立とは」が問われるようになる。フェミニズム運動や環境活動などが活発となり社会の価値観が多様化すると、「誰の目線からみて客観なのか、中立なのか」が問われることになる。

たしかにそうだ。

デザイナーは世の中の変化を感じ、ポスターに反映させていく。その敏感さや、込めるメッセージを持っていることが求められるようになったということか。

 

この客観性や中立性についてのところ、最近日本の与党議員が男性議員だけで選択的夫婦別姓を話し合うのを「ニュートラル」と表したことがあったのを思い出した。あの底知れぬ鈍さ。世の中の変化に疎く、世界も視野も狭い。。どうしたらああいう人たちの感性が改善されるのだろうか。。

 

話がそれた。

 

ソ連時代のポスターには一目でああソ連!って思うし、バウハウスにはバウハウスっぽい!と感じる程度には経験を積んだんだなあ私、と思いながら、若い人たちに混ざって見てきた。

 

ひさしぶりだったけどさすがは庭園美術館。充実の内容だった。門の外のミュージアムショップは閉まっちゃったのね。いろいろ置いてて見るの楽しかったのにな。新館の売り場もあまり広くないのでその点は残念。

 

今回は図録も買ったので復習しようっと。

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≪Le Lac des cygnes - Hommage à Patrick Dupond≫ パトリック・デュポン主演『白鳥の湖』

パリ・オペラ座のサイト L'Opéra chez soi で、3月5日に亡くなったパリオペラ座エトワール、パトリック・デュポンを偲んで彼とピエトラガラが主演した『白鳥の湖』を無料公開中。3月21日まで。

 

chezsoi.operadeparis.fr

 

私はパトリック・デュポンの現役時代を知らず、生で見たことはないのだけどそれでもなぜかずいぶん前から名前は知っていたし、特別な存在なんだなというのはなんとなく感じていた。

61歳という若さで突然亡くなってしまった彼を偲んで、オペラ座のダンサーたちがたくさんメッセージを出していた。かつて一緒に踊ったダンサーたちはもちろん、バレエ学校にポスターが貼ってあった、子供の頃初めて見たバレエがパトリックの舞台だった、Petit Pèreだった、などなど幅広い世代のダンサーに大きな影響を与えた人だったんだなというのが伝わってくる。

 

そしてバレエ界に限らず、フランスメディアではかなり大きく取り上げられていて、メジャーなメディアが何本も記事を出していた。それだけデュポンはバレエの大衆化というか、間口を広げた存在であり、その才能と個性で輝いていたんだなー。

 

www.lemonde.fr

 

www.lefigaro.fr

 

多くの人が過去の映像をアップしてくれていろいろ見たけど、踊りは今で言うならアリュだよね。型破りというか、パリオペの枠に収まりきらないあふれんばかりの個性とテクニック。この前映画館で観た『眠れる森の美女』の青い鳥踊ってたアリュがすぐ浮かんだ。踊る喜びにあふれてて。

 

Bon voyage vers les étoiles, Patrick.

 

ルグリさんがインスタに書いていたメッセージを拝借しました。

では、あらためてこの『白鳥の湖』でパトリック・デュポンの輝きっぷりを堪能しよう。

My Rembrandt(レンブラントは誰の手に)

予告編でぜひ見たいと思っていたやつ。

ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』『みんなのアムステルダム国立美術館へ』のウケ・ホーヘンダイク監督の作品。前のと同様、美術界の裏側を描くドキュメンタリー。

 

映画『レンブラントは誰の手に』公式サイト

 

youtu.be

 

いくつかテーマがある。レンブラントの絵を所有しているスコットランドのバックルー侯爵は、その絵に描かれている読書する女性をまるで家族のように思っていて、父親が飾った場所よりももっと”彼女”にぴったりの場所が必要だと、自宅(城だよねあれ)の中を専門家と探して歩き、”彼女”のために部屋を改装する。

 

レンブラントが描いた先祖の肖像画などを所有するオランダのシックス家の11世ヤン(画商)はオークションで「あれはレンブラント作なのでは?」と狙いをつけた絵を落札し、専門家たちに意見を求める。レンブラントが描いたのか、そうじゃないのか。どうやって誰が判断するのか。さらに専門家や同業者との間に確執も?

 

フランスのロスチャイルド家が所有していたレンブラントが描いた対になってる2枚の肖像画。オランダ国立美術館はぜひ欲しい。フランスは貴重なレンブラントが国外に売られるのは阻止したい。しかしオランダもフランスも単独で買うには値段があまりにも高すぎる。さてどうなる。

 

とまあ、いやあヨーロッパの貴族は今もこういう世界に生きているんだなあと、感心というかなんというか。凄い世界だなあ。

 

子供の頃から家の中で見て育ったレンブラント作品を愛して止まないバックルー侯爵といい、レンブラントの専門家といい、本当に好きなんだなあというのが目を見ればわかってほほえましい。

一方シックス家のヤンは、”そういう家に生まれた”という理由ではなく自分自身の存在を証明するためにレンブラントに夢中になっている感がある。そのためなら手段は選ばないというところもちょっとあるのかも。

 

そしてレンブラントの大作ともなるとオランダVSフランスという国同士の争いにもなり得る。オランダ側の人、「フランス人にはケンカ好きがDNAに刻まれている。受けて立つ!」みたいなこと言ってて笑ってしまった。当時のフランス文化大臣、誰かと思えばフルールさんだった。オランド大統領時代。

 

ああー、ルーヴルも、アムステルダム国立美術館も、行きたいなーーー。ルーヴル・アブダビもちらっと出てきたよ。

 行った時の→ 【アブダビ】ルーヴル・アブダビ アートなしには生きられない

 

そういや個人コレクターも凄かったな。事業で成功し会社を売却したお金で名画を買い集めたという。そして美術館で公開。個人の所有者から買い、美術館で一般に見せる。こういう”パトロン”のおかげで現代の美術館は成り立っているという面もある。

 

しかしレンブラントのような有名画家の作品は本物なら一大事で、世界をニュースが駆け巡る。いろいろな思惑が交錯していて、単なる鑑賞者として何のしがらみなく美術館で好きな絵と向き合えるというのは、シンプルで幸せなのかも。

というのは持たざる者の負け惜しみに聞こえるでしょうか。(笑)

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写真家ドアノー/音楽/パリ

音楽とパリがテーマのドアノー。見るしかない。 

 

www.bunkamura.co.jp

 

ドアノーで有名なのと言えばパリ市庁舎前でキスする男女の写真がまず浮かぶかも。今回は音楽をテーマに、50年代を中心とした当時の大衆音楽、街や人の雰囲気を伝える写真が多数。

通りの名前が書かれてる作品も多いので知ってるところもあり、パッと記憶が蘇ったりした。写真の中の時代とは違うんだけど、パリ生活を思い出すスイッチのような感じ。

 

今でもパリやフランスの音楽というとイメージとしてアコーデオンの音楽が使われたりするけど、現代のことは別として、当時のパリには流しのミュージシャンがカフェやビストロを回っていたり、日常生活の中に実際にあった音楽だったんだね。

 

ドアノーが親しかったアーティストとの共同作業としておもしろかったのがチェリストのバケとの写真。「彼自身がそのままですでにおもしろかった」と会場で流れてた映像でドアノーが言ってたけど、楽しい写真がいっぱい。

 

あとバレエ『カルメン』の衣装合わせをするサンローランとジジ・ジャンメールの写真もあった。貴重だ。

 

記録と表現を包括する写真というメディアでしか成し得ない作品

 

とパネルに書かれていたが、確かにそうだ。

 

図録買う気満々で行ったんだけど、実物を見たら!まさかの手のひらサイズで!!

いや、、写真集っぽいサイズで作ってほしかったな。。お値段は上がってしまうだろうけど。

 

ポストカード買いました。

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前田利為 春雨に真珠をみた人

久しぶりの美術館。予約制になってるとふらっと行けないのが辛いけど、目黒区美術館は予約なしで可。

 

前田利為 春雨に真珠をみた人 | 2021年 | 過去の展覧会 | 展覧会 | 目黒区美術館

 

そもそもこれが気になったのはポンポンのシロクマをポスターで見かけたから。

オルセー美術館にいるシロクマと同じポンポン作の彫刻が日本にもいたのか!?となったので会いに行ってきた。

こちらがオルセーにいるシロクマ。前回行ったときに撮ったやつ。

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www.musee-orsay.fr

 

 

目黒区美術館のHPによると、

フランソワ・ポンポンは、オーギュスト・ロダンの工房で助手を務めたこともあり、動物をモティーフにしたモダンな作風で人気を博しました。利為は、1929(昭和4)年に滞在中のパリでポンポンによる白熊の彫刻を見たことを日記に記し、その年の11月にはアトリエを訪れました。 

とあるので、もしかしたらオルセーにいるシロクマを利為も見たのかもしれないよね?

 

利為のシロクマはだいーぶ小さめでした。ひょいっと持ち運べそうなサイズ。でも直接アトリエまで行って注文したというのだから、当時の利為さん、気に入ったんだね。

ルノワールアネモネの絵もあった。自宅用にルノワール。他にも主にフランスの画家の絵が何点も展示されていた。国内の画家の作品も多数。当時の前田家、侯爵、お金持ち。しかし陸軍軍人として赴任先のボルネオで没したとあった。

ちょっと検索したのだけど、利為ドイツに留学してたのね。

 

展覧会としては展示数も多くないのでさくっと見て回るのにはいいかな。その分、若干の物足りなさもあった。撮影不可なので利為のシロクマ写真はない。ざんねん。

 

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『Duplex』Noism0 / Noism1

Noismを観にさい芸へ。去年の1月のDouble Bill以来。

 

www.saf.or.jp

 

前半のNoism1は森優貴演出振付の『Das Zimmer(ダス ツィマー)』。ドイツ語で「部屋」という意味とのことで、閉ざされた部屋の中で繰り広げられる様々な場面。ピアノ曲に合わせ、踊っては、真っ暗になり流れがぶった切られる。

これ、何か物足りなさを感じたのだけど、若いダンサーが多かったのかなあ。どことなく”学生っぽさ”があるような。自分の内から出るものよりも、与えられたものの方が感じられてしまうというか。

あと、衣装デザインはクラシカルなドレスな雰囲気なのに、髪型はただ一つ結びにしただけだったりして、そういうところも”学生っぽい”と感じてしまったのかも。普通にお団子にしてたらまた違って見えるんじゃないか。みたいなことを考えながら見てしまった。そして同時に私は何を求めて見に来ているんだろう、どんなものを見たいんだろう、とか。作品自体は好きな雰囲気だったんだけどね。

 

そんなことを考えた前半から休憩をはさんで後半、Noism0による『残影の庭―Traces Garden』(振付演出:金森譲)が始まった瞬間から、「やっぱすごっ!」ってなった。この違いはなんだろうと。11人で埋めていた空間を、3人で満たす。存在感がすごい。

立っているだけ、足を一歩出すだけで何かを語る身体。見ている側はその”何か”がなんなのかを少しでも読み取ろうと集中し釘付けになる。カリスマ性を帯びた身体の凄さ。

武満徹の音楽がまたいい。脳内ではひとつも再生できないんだけど(笑)、これまでで一番武満の音楽に集中できたような気がする。コンサートで聴いた時よりも。それだけ振付と音楽が一体になってたということかな。ダンスがあることでより音楽がわかる、というような。

 

日本人だから日本の音楽、みたいな雑な選択は好きじゃないのだけど(スポーツなどでよくあるでしょう?逆に違和感みたいなやつ)、『残影の庭―Traces Garden』は超しっくりきてた。緑っぽいライトの使い方で歌舞伎の演出を思い出した。”あの世のもの”という感じ。現実界と幻想界を行き来しているような。

 

 

それにしてもこのご時世に電車に乗ってる時間が長いとストレスでね。

それでもさい芸まで出向いてしまうのはNoismが見たいからであって、Noismの引力すごいよね。(笑)

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ONKLE(わたしの叔父さん)

2月28日をもって休館する恵比寿ガーデンシネマ。最後の1本になるかもしれない。

 

映画『わたしの叔父さん』公式サイト

 

フラレ・ピーダゼン監督のデンマーク映画コペンハーゲンから遠く離れた田舎で農業を営む叔父と姪クリスの暮らし。毎日早起きし、脚が不自由な叔父の着替えを手伝い、食事の準備をし、牛たちの世話をし、トラクターを洗い、たまに叔父とスーパーに買い物に行く。クリスは携帯も持っていない。

 

公式サイトに

父娘のように暮らしてきた叔父と姪。
穏やかな日常に訪れた、小さな波紋。

とあったのだけど、あの暮らしが27歳のクリスにとって”穏やかな日常”だったんだろうか。そうは思わなかったな。

叔父を助け、クリスなしには立ち行かない農家の仕事をこなし、”いい娘”のように見えるけど、内心の苛立ちがちょっとしたところに現れる。

 

全然他人事に思えないのが、自分にも似た苛立ちに経験があり理解できるから。老いた両親に「どうしてこんなこともできないのか」「どうしてこんなことも知らないのか」と反射的に思ってしまうこととか。しかし苛立ちつつも突き放すことはできない。そして苛立った自分に罪悪感を覚えたり。

 

いやーー、日本には、家族の世話や家の仕事のために自分の夢や興味や人生の楽しみを押し殺している”クリス”がたーーくさんいると思う。

 

難しいのは、他人にはその人の幸・不幸をジャッジできないし、本人が自分の選択に納得しているかどうかは外からはわからない。クリスが不幸だとも言えないし、複雑だ。

 

しかし人はやはり誰かと関わることで自分の世界がちょっとずつ広がるわけで、それを欲する気持ちを100%絶つのは難しいよね、人間だから。クリスには世界を広げてくれる人がいる。あのつながりは続いていくのだと思いたい。

 

叔父は若い姪を自分の存在がつなぎとめてしまっていることをどう考えていたのだろう。老いたとき、自分は自分のことをどう考えるだろう。

 

私はクリスには新しい世界に踏み出してほしいとつい思ってしまうけど、あのあとのクリスの人生、どうなっていくのかな。20年後、30年後、50年後を想像してしまうのだよね。あの数年後、ついに念願の大学に入って獣医学を学んでいつか獣医師になっててほしいな。

 

叔父目線かクリス目線かでも思うところは違いそうだけど、いろんなことを考えさせる映画だった。

 

そして恵比寿ガーデンシネマ!!

恵比寿ガーデンシネマ | YEBISU GARDEN CINEMA with UNITED CINEMAS | 映画館

以前近所に住んでいたこともあってずいぶん通った映画館だった。最後になるかと思うとしんみり。戻ってきてね!!

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Une intime conviction(私は確信する)

フランスで実際にあった未解決事件をもとにしたストーリー。

 

映画『私は確信する』オフィシャルサイト

 

行方不明の妻を殺した容疑で裁判にかけられるヴィギエ。妻が自ら姿を消したのか死んでいるかも不明なのに殺人で起訴されてしまうのかというのも驚きだけど、ヴィギエに無罪判決が出ても検察が控訴し、再び被告となってしまう。フランスの裁判制度はよくわからないのだけど、なぜヴィギエのみが疑われたのかどうも腑に落ちない。

 

真相が不明で、いくらでも仮説が立てられる。警察も検察も検事もメディアも人々も、ヴィギエが妻を殺したのだと仮説を立て、疑惑の目をヴィギエだけに向ける。

推定無罪の原則が破られ、自分は無罪だと言ってもその声はかき消される。怖い。

 

メディアが大げさに盛って伝え、裁判とは関係なく有罪だという空気が作られる。こういうのはよくあることで、日本でも容疑者の段階ですでに有罪のように扱われることは多々ある。

 

ヴィギエの無罪を信じて裁判の準備に協力するノラ。そもそもノラが有名弁護士に直談判してヴィギエの弁護を頼んだ。そして進行する裁判の最中もノラが超重要な役割を果たす。なんなら自分の生活を犠牲にしてまでも。

 

どうしてそこまでできるのかを考えて、でも、正しいことをすることに本来理由なんていらないんだよな、と思う。正しいことをしない自分にはやらない、できない理由を考えなくてはいけないけど。このノラの人物像はフィクションで実在はしないそうなのだけど、その存在こそが、正義とか倫理とかなのかもしれないな。

 

ノラの調査で疑いが増したのが妻の愛人だったデュランデなんだけど、これがめっちゃ怪しくて嫌なやつで、実在の人物なんだろうけどこうやって描かれてしまうのなんか凄い。

そして有名弁護士も実在していてなんと今はフランスの法務大臣を務めているというからこれまた驚き。

 

自由と人権の国でも推定無罪が危うくなってしまうことがあり、それを監視し批判的に見つめる人々の存在がなくては簡単にゆがめられてしまう制度なんだなと、考えさせられる。

 

普段、特に日本では権力者に甘く、一般人は偉い人に意見する習慣がない。意見の対立どころか意見を言うこと自体を嫌がる傾向がある。とても危ういと思う。たとえ小さなことであっても声を上げること、正しいことを求めることを手放してはいけないのだと思う。

 

タイトルのune intime convictionは「内的心証」。

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マシュー・ボーン in cinema『赤い靴』

予定では昨年来日公演が実現しているはずだったマシュー・ボーンの『赤い靴』。

アダム・クーパー出演ということでぜひ見たいと思っていたのにコロナ禍のせいで中止になっちゃったのよね。。

 

mb-redshoes.com

 

ロンドン公演の映像を映画館で。これ、ストーリーとしてはいかにも古典だし、これまでのマシュー作品に感じたような「そうきたか!!」という新鮮さ、斬新さは感じられなかった。私にとっては白鳥、眠り、カルメン、ロミジュリみたいにバレエとしてよく知っている話と音楽のものに比べるとなじみがなかったので、その点で不利だったのかもしれない。

 

あとカメラワーク。ダンサーに寄りすぎていて見たいところが見えないのがストレス。マシュー作品ではお芝居の要素が強い面はあるにしても、舞台上のあちこちで起こっていることが気になるのでもうちょっと引いて撮ってほしいな。クラシックバレエのようにつま先まで映せとは言わないけど。

 

アダムは衣装がよく似合っていてやはりダンサーというのは年齢関係なく立ち振る舞いが美しい。欲を言えばもっと踊ってほしいけど。

リアムは一体何着衣装を着替えているのだろうか、踊りまくり。作曲家役のドミニクといいバレエダンサー役のリアムといい、さすがNAのダンサーのキャラにぴったり合っている。

 

ストーリーとしては、うーむ、どうなんだろうこれ。マシューお得意の現代らしさがどこら辺にあったのか、ちょっと読み取れなかった。でもきっと生の舞台で観たら楽しいんだろうなー。

 

早く来日公演が可能な世界になりますように。

パリオペラ座バレエ団『眠れる森の美女』(2013)inシネマ

2013年、パリ、オペラバスチーユでの公演『眠れる森の美女』を映画館で。

オーロラはミリアム・ウルド=ブラーム、デジレ王子にマチアス・エイマン。理想形。

youtu.be

 

バレエ|パリ・オペラ座|眠れる森の美女 |ルドルフ・ヌレエフ|チャイコフスキー

 

2014年の上映時にも見ているこの公演。何度見ても素晴らしいミリアムとマチアス。

最初にミリアムのオーロラが登場するのはカラボスが「呪ってやるー!」ってなっている場面での未来のオーロラの姿としてなのだけど、ブーケを持って立っているだけなのに「かわいいーーーーー♡」ってなってしまう。あの姫オーラ、さすがエトワール。オーロラ姫の”理想形”が踊っている、というそのことに感動してしまうのだよね、存在してくれてありがとう…みたいな。(やばい)

オーロラの見せ場であるローズアダージオ。いやーもうね。私にとっての”理想形”なので、瞬きするのも惜しい。

ところでオーロラ16歳の誕生日にやってきた4人の王子、ロシア、インド、ペルー、アフリカ、なのだけど、肌の色塗るのは今後どうなりますかね。(アフリカンは濃いめに塗っていた)最近の上演ではどうだったんだろうか。

 

さて2幕はなんといっても幻想の王子のソロ。なんとも言えない哀愁を漂わせつつあの複雑な振付を踊りこなす。踊りこなすというのはいい表現ではないな、マチアスはあれほど複雑で難易度が高い振りが自分の身体に入っていてあの複雑さで表現するレベルに達している。多くのダンサーにとって振り通りにこなすのに精いっぱいになってしまうであろうところ、(そういう場合観客はひやひやしたりがんばれーと心の中で応援してしまう)マチアスのデジレ王子はその心境を表現するためにあの振りがあるのだと思える。

 

マチューのデジレ王子もこのソロの場面に見入ったのだけど、また別の意味で見入ったような気がするんだよね。マチューの場合はより表現に感嘆した記憶なのだけど、マチアスは踊りがメインでその音楽性が王子の精神状態を表現している、というような。

 

それにしても、王子を踊るというのは、選ばれし者にのみ許されているのだな、と思わされる。あれはダンサーなら誰でも踊れるというものではない。

 

しかしこれはクラシックバレエを観る上での葛藤なのだけど、”見た目が第一”というわけじゃないのだよね。容姿も持って生まれた才能のうちではあって、美しいつま先を持っているとか、甲が出てるとか、足が長いとか、確かにそれが有利に働く面はある。それは否定できない。観客として。しかし見た目でジャッジしてはならぬ、という気持ちも同時にある。バレエダンサーの身体は子供の頃から何年もかけて鍛錬を重ねてきた一種の芸術品のようなもので、顔がいい、スタイルがいい、みたいなものとは別物だと思っている。

 

オペラ座には多様性が足りないという話も、その通りと思う。でも15年前と比べたら変わってきているとも思う。より幅広い子供たちがダンスを習い、プロを目指す子供たちを後押しする先生たちも、より幅広い子供たちに可能性を見出していけるといい。そして見る側も、ステレオタイプでダンサーをジャッジしないように。私も以前よりはその辺りを意識するように気を付けている。

 

さて「眠り」に戻ると、私は2幕の幻想の場面好きだな。パリオペの王子は何か満たされない憂いをまとってる王子が多い気がするのだけど(笑)、幻想のオーロラの高貴で手が届かないような雰囲気と、満たされない思いを抱えた王子が距離を縮めたり遠ざかったりしながら、王子を決意へと導く。

一方、眠っているオーロラたちのもとにたどり着き、オーロラ姫にキスをして目覚めさせて、周りの人々も次々と目を覚まし、めでたしめでたし、というのはまあ単純よね。幻想の場面があるから、単純なおとぎ話にならずに済んでいるところはあると思う。

 

3幕はGPDDまでの間をどう持たせるかで(ひどい)、こういうところを楽しめないと「眠り」のような演目はつらい。長いし。

見どころはフロリナと青い鳥で、この日のキャストはヴァランティーヌとアリュ。当時は2人ともプルミエ。あの頃のアリュはすぐにでもエトワールになりそうな勢いがあったよね。。観客からも愛されているし。この日の出来はそれほどよかったとは思わないけど。

他にも、当時プルミエで今もプルミエ、当時コールドにいたけど今はエトワールなど、2013年から8年ほど経っているので見慣れた顔を見つけるといろいろ考えた。

 

特に今、ユーゴの自伝本を読んでいるので、当時ユーゴはたぶんこの年のコンクールでコリフェに上がったところだと思う。ジェルマンと共に。自伝本では学校時代から入団試験、入団して最初の頃の昇進試験のところを読んだので、ああ、ああいうこと考えてた頃のユーゴかあ、みたいな気持ちに。

 

さてフィナーレとなる3幕のGPDD。ここは有名なソロがあるのでプレッシャーかかりそうだけどさすがよねエトワールたち。特にマチアスのソロの後のバスチーユいっぱいの観客からのすごい拍手。胸が締め付けられる思い。観客でいっぱいの劇場が恋しい。

 

前回2014年に見たときから何年も経ち、その間に私もいろんなものを観たりして、同じ映像でも観る側は変化している。前回より深く読み取れたり感じ取ったりできていたらうれしいな。

 

それにしても、早くパリで観たいよ!!!

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