アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

自宅でアート鑑賞その18

ロイヤルバレエの『ロミオとジュリエット』公開。7/24まで。

マシュー・ボールとヤスミン・ナグディ。

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公開期間が2週間もあるのに、公開まもないタイミングで見るなんて私にしては珍しい。それくらい好みなの、これ。映画館にも2回観に行ったし。

何がそんなに刺さるんだろうか。

 

まずはやはりマシュー・ボールの見事なロミオ。ロミオとしての感情の動きがもうこれでもかとつぶさに伝わってくる。舞台上でロミオを生きてるのよね…最初のやんちゃで深く考えてなさそうなロミオ、ジュリエットと恋に落ちその幸せにキラキラ輝くロミオ、マキューシオの死に怒りをふつふつとたぎらせていく様、その後傷つき後悔する様、そして墓地での最後。

そしてヤスミンのジュリエット像にも共感する。無邪気な子供だったジュリエットが突然現実(結婚)に対面させられた戸惑い、家族に従わねばという気持ちと抗う気持ちの葛藤、ロミオと恋に落ちて自分自身に目覚める姿、それを貫こうとする意志と強さ。登場の場面でのあの幼いジュリエットがここまで成長する。

そして主役2人に限らず舞台全体を通して、”予定調和風味”をほとんど感じさせない。すべてが連なっていてわざとらしくない。これ超大事。

 

ロミオとジュリエット』を違和感を感じずに見るためには、ジュリエット像が超重要なのだ。シェイクスピアがどんな少女を想定して書いたかはわからないが、現代人が現代に上演するのだから、今の世相が反映されてしかるべき。古いままの女性像の再生産は見たくないのだよね。(個人の見解です)

なのでサラ・ラムのジュリエット大好きなの。サラのマノンも大好き。知的で、自分がある。

 

そういうわけで私は、新国のロミジュリでは”予定調和風味”とジュリエット像の点でどうにも受け入れ難いのだな。。色々重ねて見ることで結論が固まりつつある。

  

映画館で観た時1回目

英国ロイヤルバレエ団「ロミオとジュリエット」 in シネマ(2018/2019)

 

映画館2回目

【再び】英国ロイヤルバレエ団「ロミオとジュリエット」 in シネマ(2018/2019)

 

新国立劇場『ロメオとジュリエット』をオンラインで観た時

自宅でアート鑑賞その12 - アートなしには生きられない

 

 

つい熱くなってしまった。次はパリオペ。

パリオペラ座350年記念ガラもオンライン公開中。

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ARTEだとジオブロックで観られないけど、こちらのは観られます。期限が不明なのでお早目に。

 

バレエは椿姫からPDD紫(レオノール・ボラックとマチュー・ガニオ)、ル・パルクから”解放”のPDD(アマンディーヌ・アルビッソンとフロリアン・マニュネ)、椿姫から黒のPDD(エレオノーラ・アバニャートとステファン・ビュヨン)の3組。

アマンディーヌとフロリアンのル・パルクがもうね、泣いちゃう。このPDDはバレエ界では超有名だし色々なカップルで観ているけど、パリオペのダンサーが踊るのが本当に好き。それぞれに好き。あのなんとも言えぬ大人の世界の雰囲気を作れるのは、良いダンサーならだれでもできるという類のものでもないと思うのだよね。上手い、というのとも違うし。パリオペというカンパニーの文化の中にある何か、があるのではないか。

別次元に素晴らしかった思い出が何年前かのWBFで観たゲラン/ルグリ。ベテランダンサーの作り出す世界があまりにも美しく尊かった。究極の姿。

 

それにしても350年ガラにこの3つの濃厚なPDDを並べるところがさすがパリである。(笑)

 

 

ロミジュリにせよ椿姫にせよル・パルクにせよ、同じ作品を「誰が」「どこで」踊るかによって背景にある文化や社会が反映されていると思うのだよね。どんな文脈の中でその作品や役が解釈され、上演されるか。そしてそれを受け止める観客側の感覚や嗜好。

 

舞台は生ものだし、踊るダンサーも生身の人間、世の中の雰囲気も変化する。その変化に敏感に反応し適応していかないと「古いもの」になっちゃう。MeTooやBLMなども当然反応すべき世の中の振動であって、その辺の反応がにぶく見える日本の界隈に対しては、どんどん世界から置いていかれないようにと願う…。

 

私にとって「ロミジュリ」はあれこれ考えるスイッチになってるようでつい語りたくなってしまうのであった。