アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Ammonite(アンモナイトの目覚め)

フランシス・リー監督≪Ammonite≫(アンモナイトの目覚め)。メアリー・アニングという女性の古生物学者が実在していたのだね。

 

映画『アンモナイトの目覚め』 公式サイト

 

労働者階級で女性。どんなに才能や実績があっても名前が公に表示されることはない。どんな成功も、大英博物館に展示されるときには男性の名前に上書きされる。それでも生活していくために黙々と海岸で化石を探す毎日。メアリーの無表情、寡黙さは、ある種の諦めなのかもしれない。

 

シャーロットは裕福な夫の妻という立場で、これまた一人の人間としては存在してない。子供を失った悲しみから立ち直れないのも、夫との関係が原因なのではないか。子供がいてもいなくてもシャーロットはシャーロットとして素晴らしい、と言ってくれる人はいない。

 

「自分の存在価値とは。」というような空洞を抱えた二人がお互いを必要とし、特別な感情が生まれる。それは必然のように思えたし、女性同士だからレズビアンというより孤独な人間同士がたまたま女性二人だった、ということではないのかと思った。そしてそこにセックスは必要だったのだろうかとも思った。いやもちろんセックスしたいならすればいいのだけど、映画として描くときにそこにそのセックスシーンが必要だったんですか、と問いたい気分。

 

この映画をセリーヌ・シアマ監督の『燃ゆる女の肖像』と比較した人も多いんじゃないか。実際、共通点も多い。けどシアマ監督が描いたのは作品の隅から隅まで登場人物である女性の視点であると感じたし、それがあの緊張感と共感、衝撃を生んだと思う。

一方、リー監督(男性でオープンリーゲイ)の場合は、他者目線な気がする。当たり前といえば当たり前だけど。どこか「鑑賞している」気配がある。

 

とはいえ、当時の女性たちが社会的階級を問わず置かれた女性であるがゆえの不利な環境の理不尽さであったり、その中で生きた女性たちの功績が透明化されてきたこと、制限のある中で生きる息苦しさを描くのはよかった。こういったテーマでは女性監督の活躍が目立つけど、男性監督によって描かれることもまた必要なことなのかも。

 

最後のほう、大英博物館を訪れたメアリーが男性の肖像画しか飾られていない展示室を歩くといった象徴的な場面。そこに女性の存在はない。ないことにされていたのだと。

 

一番最後、見つめあったメアリーとシャーロットはあの後どうしただろう。

 

【追記】

その後、シャーロットも実在の人物だったこと、実際には映画での設定より年上で、シャーロット自身も地質学や化石について知識を持っていたことを知り、その改変はどうなんだ?と疑問。映画では若くて無知なお金持ちの女性と描かれていた。貴族としての無自覚な傲慢さも。

メアリーとシャーロットが性的な関係として描かれることには違和感が増した。監督の都合上、設定を変えましたという感じ。

 

 

f:id:cocoirodouce:20210421004504j:image