アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

ロイヤルバレエ来日公演2026『ジゼル』

今回のロイヤル来日、私は『ジゼル』1回のみ。サラのジゼルを観に。

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サラジゼルの可憐さ、健気さ、儚さ、美しさ。ジゼルのあれほど深く大きな愛に見合う男だったのかお前は!と言いたくなる。あまりにサラへの愛が強すぎてサラ以外への興味が薄らぐ私。(笑)

サラが舞台上にいない時間は、(なんでこれ観に来たんだっけ、あ、サラジゼルだからだ)と何度もなってしまい、正直来日公演の高騰したチケット代に対して、期待値を上回れるかどうか微妙だなと感じる。まあ仕方がないのよ、円安過ぎるからね。

納得できる可能性が高い作品としては本家たるマクミラン作品だと思うけど、チケットの売りやすさを考えると『ジゼル』のような、幅広い客層を想定できるものになるのかな。

 

話は逸れるが、コンクールでよく見る有名なヴァリエーションが含まれてるので、せっかくならあのVa.はどんな場面で、どんな状況で踊られているものなのか、というのを全幕でぜひ理解してほしいよね。コンクール見てるとなんか、文脈関係なく踊ってる感ある。

 

ロイヤルの演技力が、一幕のジゼル母やバチルドらの様子によく表れてる。リアリティ、説得力がある。

一方、別世界に連れて行ってほしい二幕ではどうだろうか。あれは精霊たちなんだろうか。私の目には、人間が精霊の役を踊っています感がある。あくまで血の通った人間なのだよね。脚を振り上げるのも活力を感じてしまう(笑)とにかく軽さやあの世感はない。

 

2020年オペラ座の来日公演での『ジゼル』を3キャストで観ているのよねえ。コールド含めオペラ座の『ジゼル』はさすがですよやっぱり。※パリオペファンの個人の感想です

 

そんな中で唯一儚さをまとい続けているのがサラジゼルで、それを浮遊させる平野さんのリフトも見事。本当に消えてなくなってしまいそうなジゼル。そんなジゼルが凛とした強さでアルブレヒトを救う。救われるに値する男だったのかアルブレヒト……(また言ってる)

 

サラの儚いながらも真の強さや知性を感じさせる役作りが大好き。浅はかなアルブレヒトはその本当の価値に気づいてなかったのよ。1人生き残りやがって。(まだ言う)

 

サラのピケアラベスクの美しさ。過剰な演技によってではなく、ピケアラベスクによってその人物の性格や、その場の感情を表現する。これぞクラシックバレエなのではないか。

 

NHKホールは駅から遠く、不快度高めな中を15分以上歩かねばならず、帰りも余韻が吹き飛ぶ下世話界隈なので、東京文化会館早く復活してー(切実)

 

あと、これもホールのせいかもだけど、ミルタが投げた枝が床に落ちた音が「ドサッ」「ドサッ」と響き、百合の花も音がして、ウィリたちの足音もドタドタするし、あれはちょっとなんとかならぬのかと思った。

 

ほんと、古典の世界作りって大変だね。

 

カーテンコール、サラを全幕で観られるのはもしかしたらこれが最後になるかもしれない、との思いで再ウルウルした。また会えますように!!

 

 

追記:

私は今年かつてないほど生の舞台を観ておらず、そして主にパリオペ勢を中心に観ているので、最近の国内カンパニーには疎い。海外とのレベル差は縮まっているもしくは上回る面もあるという意見は、きっとそうなんだろうな、そう言えるくらいにレベルが上がったんだろうな、というのは想像に難くない。今回のロイヤル来日を見て、意外と差はないなと思ったりするんだろう。

一方で、観る側の好みの問題は常にある。今まで何度も書いているけど、同じ作品同じ役であっても、海外勢と日本勢でアプローチが違う(特にマノンやジュリエットなどに顕著)。違っていい。観る側はその違いに気づき、好みによって取捨選択をする。

私にとっては女性像がどう表現されているか、どう解釈されているかはとても大きな要素なので、その面でモヤモヤが残ったものは、次回選びにくい。それが最大の理由。

 

かつて、新国白鳥にザハロワが客演したのを見たときのような衝撃は、今はもうないだろうと思う。スターを呼ばなくても成り立つのは素晴らしい。それぞれのカンパニーが個性的に、そしてレベルアップしていくのがよいのだろうと思う。

 

『急に具合が悪くなる』(Soudain)

www.bitters.co.jp

 

3時間超の作品。真理とマリー=ルーの出会いから別れまでと考えればそれだけの長さが必要だったんだろう。

日本とフランス、日本人とフランス人、日本語とフランス語、自分の経験と重なるところもあるのかなというのも観てみようと思った理由。

そして国籍や文化や背景が同じでなくてもわかりあえる、大事に思い合える、通じ合える人がいる、というのが実際にあると経験から知っている者として、真理とマリー=ルーの関係を、あり得るだろうな、幸運だなと感じる。

それにしてもつくづく私は人と人が、異種異文化にも関わらず共感共鳴することにめちゃ弱い。マリーが真理をパリに連れて帰る提案するとこまじやばかった。(語彙貧)

 

理想を掲げることの大事さと、とはいえない袖は振れない的な現実と。人生は”理想”をセットし、そのために動き、学び、妥協し、過程に喜びや意味を見出すものなのかもしれない。台詞にあった「何も残せない」が何を想定しているのか考えているが、圧倒的大多数の普通の人々にとって歴史に名を遺す的な遺産はないわけで、誰かの心に残るという他者なのか、それともその時まで自分自身が成してきたことの記憶や手触りみたいなものなのか。究極、自分の中に何かが残ればそれでいい気がするな。なんなら最終的には残らなくても。

 

どこかどうとうまく言語化できないのだけど、日本人監督とフランス人らヨーロッパの監督が撮るもので、何が違うんだろうなと。私が日本人だから、日本の監督が言わんとすること、意図していることを勝手に感じ取り過ぎてしまう、逆に、外国人監督の作品ではそこまで深く文化や歴史やコンテクストを理解できていないから、余計なことが気にならない、ということはあり得るかもしれないなあとは思う。

 

私は主に人間的な面の感想を持ったけど、認知症や施設の在り方、介護の手法や予算といった社会的な面から見ても、論点盛り沢山な作品だった。ヨーロッパ的、カンヌ的な作品で、あちらから見ても共感でき、かつ日本的要素が絶妙に織り交ぜられているのが好印象だったんだろうな。

そうなのよ私たちは同じ人間で、普遍的な感情があり、わかりあえるのよね。

The Old Oak(オールド・オーク)

公開になっていたのを見逃してた。間に合ってよかった。

oldoak-movie.com

 

ケン・ローチ作品は容赦がない。我々の問題を直球で突きつけてくる。

冒頭、到着したシリア難民たちを嘲る地元住民の一部。見ていてめちゃくちゃ居心地が悪い。現実世界で、日々SNS上で目にしている光景を映像化して見せられているようだから。バリバリ我々社会の話でもある。

 

英語ができて理知的なヤラが難民たちの中にいてよかった。コミュニティとコミュニティ、分断を繋ぐ役割を負うポテンシャルを持つ人。まず何より言葉の問題は大きく、自分が理解できない言葉で会話が展開していく時の疎外感、場合によっては苛立ちというのは、難民側であれ地元民側であれ、ある。そしてその片側だけが一方的に強いわけでも、弱いわけでもない。豊かな国のはずなのに、食べるに事欠く子供がいる。(日本も同様)人助けなんかしてる余裕はないんだよ、という悲鳴の裏返し。

しかしそれでもその壁を越えて、共感、共鳴できるのが人間たるものだと思う。

 

『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』と見てきて、本作はその、人間としての共鳴する場面というのが、ちょっとあまりにべたかなあという気もした。でももしかしたら、これくらいでなければ伝わらないという不安や強い思いもあったのかもしれないと勝手に想像した。分断の深刻さを憂う気持ちと、人間の良心を信じたい気持ちと。

 

あと、イギリスのパブという存在は貴重だね。パブがあるから、完全には物理的には分断されず接点がある。あの人たちに唯一残された居場所。ある意味で公共施設的な。(まあ「Pub」だもんな)

日本だとなかなかああいう場を見かけない。シンガポールだと公園におじちゃん・おじいちゃんたちが集まって将棋(かな?)やってるんだよね。どんな形や内容であれ他人と関わる場面がなくなってしまうと、孤独や不満の行きつく先が心配。

 

いつの時代も振り子は振れていて、難民ウェルカムの時期を過ぎれば今度は、難民が多すぎると排外主義が台頭する。ヨーロッパがそう。アメリカで例えるなら、オバマについていけなかった人が、トランプに心酔する。みたいな。日本の場合は振り子というより真っ逆さまな気もするが。

 

監督が批判するのは排外主義で差別主義の住民ら個人のみでなく、日々の暮らしに苦しむ住民を救わない、救う気のない為政者、炭鉱が閉鎖された頃からそれが続いてきた状況、他国の独裁者の非人間的な振る舞いを止められなかった世界に対する批判。虐げられ苦しむ人々を傍観してきた各国。

 

じゃあ我々個人は、私は、何ができるだろう。

せめて忘れずにいなくては。

 

 

 

 

ロイヤル・バレエ in シネマ『ウルフ・ワークス』

tohotowa.co.jp

 

マクレガー作品の世界に浸ってきた!

無教養で申し訳ないがウルフの作品を読まずに観に行ったので、原作との行ったり来たりは出来ないままなのだが、マクレガーやリヒターをはじめこの作品を創り上げた皆さんすげー!となった。カンパニーの力の入れ具合、層の厚さよ!(語彙が貧しい)

 

そして現役バリバリの振付家の作品をレパートリーとして持つことは、時代に合わせてアップデートできる点、そしてダンサーらにとっても直接理解が深まることなど、現代を生きるバレエ!という感じがする。

 

ウルフ役のオシポワはこういった役への没入感、役を生きる凄みというのがとても魅力的。1幕、若きクラリッサが踊った後にオシポワが動くと、残酷なまでに深みが違う。踊るではなく生きるを体現するダンサーなのだと感じた。さすがである。同じように、初めて見たパトリシオ・レーヴェも、手の先の動き、視線といったところから独特の魅力を醸し出すダンサーだと思った。

 

2幕の盛り上がりは見事な造りで、これは観客はみんなテンションMAXだね。生で観てみたい。しかしステージの暗さとメイクでダンサーの識別があまりできず、日本人女性ダンサーの区別がつかなかった(笑)

 

3幕のあの感じが私はとても好きで、2幕のようにガンガン踊るのもカッコいいけど、どうにもならない無力さとか、救われない感とか、よかったなあ…。

 

それにしても創作に参加しているスタッフが豪華で、見事に融合していて、やっぱりバレエは総合芸術だわ。そしてマクレガーのインタビューでも言ってたけど、”バレエ”の概念を広げているよね、バレエ的なものの領域を拡大している。

 

あと、ロイヤルを見始めてそれなりに年月が経つと、ローザンヌのあの子がもうこんな役をやるように!みたいなことになり、そうなると以前からいるプリンシパルたちも、引退が近づいていたりするのかしらとも考える。ロイヤルは定年あるのかしら?マルコはマクレガー作品では結構大きい役をやっているけどなかなか昇進はしないね。なんでだろ。

 

日本人ダンサーが多く所属していて、日本の観客としては親近感を持ったりするのかもしれないけど、私は日本人女性ダンサーの表情の作り方に苦手パターンがあって、今回はそれだった(一幕)。その表情、どういう感情を表そうとしているの?うれしいの?悲しいの?切ないの?しあわせなの?正直マジでわからない……。

これ新国などを見ていても思うことで、もともと日本人は感情表現苦手みたいな先入観というかそういうのがあってのそれへの対抗なのかなとかいろいろ考えてしまうのだけど(苦手とは言わせない的な)、その眉による表現というのはどこから来たのですか?とずっと眉を見ちゃう(笑)

 

全然関係ないけど昔、たまたまテレビで見たスーパーのレジの店員さんの接客スキルを競う全国大会みたいなので優勝した人(だったと思う)が、お客さんに向かってああいう眉を下げる表情を作り「申し訳ありませーーん」と言っていたのが思い出される。多分私にとって違和感のある表情なんだろう。なんかあれを連想しちゃうのよね。

 

バレエに話を戻す。

上映の日のキャストシートはこちら。

Woolf Works | Cast Sheet | February 9, 2026

そして他の日のウルフは?と見てみたら、サラもネラも踊ってるのね!!

サラの日も映画館でやってーーーー(わがまま)

 

しかしこういう作品は教養が試される。未熟で辛い。

 

劇場専属舞踊団について

Noismが新潟市のりゅーとぴあ専属舞踊団として活動して22年になるという。2004年設立だから、なるほど22年。そしてこの間、Noism以外には劇場専属舞踊団は生まれなかった。結局日本には、新たに舞踊団を抱えるだけの予算、信念、ビジョンといったものを持ち合わせる自治体はないということなのか。数日前に新潟市芸術文化振興財団が出した次期芸術監督の公募には、最近のNoismを追えていなかった私には「はあ??」というものだった。

 

芸術監督の公募について | ニュース - りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館

 

私は以前バレエやクラシック音楽をメインにライターをしていたことがあり、金森さんに会ってインタビューしたことも数度ある。当時は金森さん自身は踊っていなくて、ご本人に向かって「ぜひまた踊ってほしい!」などと無邪気にお伝えしたことを覚えている。

 

当時から行政を相手にNoismの存在意義を説明、説得することに金森さんは相当な労力を取られている印象だった。数年で変わる担当者、選挙で変わる為政者。またゼロから説明か…みたいなことは容易に想像がつく。金森さんは100年続く存在を想定してお話されていたけど、行政側の実務のサイクルとはあまりにも相性が悪い。そういう状況の中で孤軍奮闘されているのだなあと思っていた。

 

行政側から見ると、Noismの存在を一般市民にどう説明するか、納得してもらうかが必要なんだろう。市のお金を舞踊団に使う、それに対して「無駄なのでは?」「他にもっと優先すべきことがあるのでは?」という意見はいかにも出そう。

 

文化芸術の存在意義を言葉や資料で説明するのは難しい。私はライターとしてバレエ、ダンス、音楽などを”宣伝紹介”する側であったけど、たとえ相手が友人知人であっても、良くわからないけどそれなりのお値段するチケットをわざわざ調べて買うという手間と費用を実際にかける人は、滅多にいない。私の力不足はもちろんあるけど、他人の気持ちを動かすというのは、一般的に言っても難しいことだと思う。

ましてそれが文化芸術となるとなあ!

 

また近年のNoismを観て感じていたのは、金森さんと金森さんにとってのミューズとしての井関さんが別格の存在で(0に山田さんはいるが)、若いメンバーは数年で入れ替わるという形が気になる。若いメンバーがNoismに憧れて加入し、しかし諸々の条件や環境により数年で辞めていく。(実際のところはわからないけど)

中堅がいないことで、創作や出来上がる作品の内容になんらかの制約が生まれ得るのではないかなあと勝手に心配してしまう。若手が長くいられないのが給与などの待遇面なのであれば、その改善を財団に要望するのは当然のことだと思う。

しかし現状だと、悪循環のようにも見えて、仮にこの先も”絶対的プリンシパルと永遠のコールドバレエ”なのであれば、どこか別の活躍の場を探そう…となるのも自然な気がする。そして常に中堅が不在が続く。(完全に私の妄想です)

 

過去の感想:

cocoirodouce.hatenablog.com

 

財団がHPで芸術監督を公募しますと突然発表するなんて、ずいぶん喧嘩腰だなと感じたのだが、これまでの経緯を確認すると、金森さんの任期5年の期限が2027年8月で、次の5年のオファーは断っていたとのことだから、次の人を探すのはまあ当然のことなのかな。そしてNoism側は次期監督に井関さんをと言っていたようだから、それはちょっと無理だよね…となるのもわからないでもない。(当事者同士のコミュニケーションの仕方は別問題として)

公の施設に専属する団体として、長期間にわたって特定の個人だけが関わっていくのは一般への説明が難しい。トップが金森さんから井関さんに替わったとてその問題は変わらない。

例えばBBLであっても、絶対的トップが君臨する組織というのは潜在的に問題を孕む。

 

新潟市にはNoism側が納得できる環境を用意できなかったし、Noism側は行政と妥協することができなかった。結局のところ、やっぱりお金の問題は大きいのかしらね。要望を叶えてあげたくともないものはない的な。地方都市の予算規模は、年々縮小することはあっても増えることはなさそうだし…。あとはそもそも、もはや新潟市がNoism事業への関心が薄れてしまったのかも。人の入れ替わりにより。

そして我々一般市民も、どこかで仕方がないと思ってしまっているような。それも良くない。かと言って新潟市民でない者として何ができるのか、それも歯がゆい。熱いファンがりゅーとぴあまで遠征しているのを見る度に、行かなくてすまん…みたいな気持ちが薄らと湧く。

趣味であり楽しみであり人生を豊かにしてくれるものであるのは確かだけれども万人にとってそうなわけではないものと行政との相性の悪さ、またそういったものが自分たちの生活、社会にあって当然なのだという共通意識のなさ。22年あっても変わらなかったかー、というのはある。

 

新潟市と当財団は、令和9年(2027年)8月末までの現任期満了をもって金森監督が退任意向を示されたことを受けて、同年同月末でNoism Company Niigata事業を終了いたします。

と財団HPにはあるので、全然違う何かになるのかもね。Noismはもう手に負えない存在なのだろうから…。

 

どこか、Noism招聘に手を上げる自治体が現れないものかしらね。近所にNoismいたらヤバい…ヤバすぎる…(妄想)

 

金森さんは東京バレエ団に振り付けた全幕バレエ『かぐや姫』が来年ガルニエに招聘されている。任期満了後もきっと活躍を続けていくことだろう。Noismを経たダンサーの皆さんにも、活躍の場がありますように。

 

カンパニーについて | Noism Web Site

 

追記:Noism自体の活動は続くとのこと、良かった!

 

Hamnet(ハムネット)

どんな映画かほぼ予備知識なく観に行ったけど、すごく良かった。

『ノマドランド』のクロエ・ジャオ監督作品。

hamnet-movie.jp

 

≪To be, or not to be, that is the question.≫(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)があの場面で出てくるなんて、言葉の重みがありすぎて辛い。

 

先日観たクランコの映画でも感じたことだけど、本人の人生が辛く厳しいことが、その後の名作を生み出すことに結果的に寄与しているのかもしれないと、つい考えてしまった。

 

16世紀のイギリスの暮らしがどんなだったのか、本作での再現度がどのくらいなのか私には判断がつかないけど、あの生活はキツイ。現代とは比べ物にならない程どうにもならないことが多いからこそ、人々は逞しく、ある意味がさつで無神経で、同時に神経を研ぎ澄ませていなければ生き残れなかったのかも。

一方、ウィル(シェイクスピア)には知性と文化が割り当てられ、アニエスには感性と自然が割り当てられているのは、現代にも連綿と続く呪縛みたいなものを感じる。ウィルがラテン語を教えてたのも男の子だけだったと思うし、女の子が学ぶのは母からの伝承。

 

死がすぐそこにあり、多くの人が子供を亡くす。

その痛みを、舞台上の『ハムレット』と、人々の共感、共鳴が癒す。この場面すごかった。

 

ところでAgnesをアニエスと発音しているように私には聞こえたんだけど字幕はアグネスだった。16世紀の英語は今より仏語に近かったんじゃないかと思うんだけど、そのあたりは当然研究があるんだろな。シェイクスピアを原語で読めば感じられるのかな?

≪Adieu.≫も言ってたね。字幕は忘れたけど。(二度と会わない「さようなら」の仏語)

 

全体としては圧倒的に後半が素晴らしく、人が悲劇に心惹かれてしまうのはシェイクスピアの時代の人々から現代人まで普遍的なのかしらね。バレエでも悲劇好きだしな私…。そして悲しみを経験したことがエネルギーとなり新たな傑作が生みだされるのも、時代を問わずだろうか。もちろん幸せもエネルギー源になってるはずだけどね!

 

それにしてもイギリスの俳優たちは子役まで凄いな。なんであんな演技ができるの。

 

 

John Cranko(ジョン・クランコ バレエの革命児)

クランコの人生、全然知らなかった。

johncrankojp.com

 

我々がバレエを観て感動するのは、そこに自分たちの人生があるからなんだと痛感した。舞い上がるような幸せな気持ちも、別れの痛みも、みんなそれぞれ自分の人生で経験し味わう感情が、舞台にある。

 

『オネーギン』を筆頭にクランコ作品でたくさん涙してきたのに、クランコという人のことには無知だった。クランコは自らの痛みと共に、あれらのバレエを創ったのだな…。

芸術家とは、なんと苦しい人生か。身を削っている。

あのレンスキーの決闘前のソロ、胸が締め付けられすぎて辛い!

 

踊りの映像もたくさんあって見応えあったなー。リアルな宮殿でのロミジュリの場面おもしろかったし、振付への理解も深まった気がする。背景にある情報が自分の中で増えていくことで、それが抜粋であっても映像であっても、脳内でいろんな補完がされて感動できてしまう。映画を観ながら何度もじんわり涙が出てきて、我ながら泣きやすすぎるのでは?となった。

 

クランコさん、たばこ吸い過ぎですよ…お身体大切に…(忠告届かず)

 

それにしてもシュツットガルトの現役ダンサーたち、見事に俳優であった!バレエダンサーは通常台詞は言わないけれども、演技、表現は踊りの一部。それが映画にも存分に発揮されていて素晴らしい。本物のダンサーがそのまま出演しているからこそあれだけ踊りの場面が登場させられるわけで。特にバデネス大活躍。

 

ラスト、存命の方々も登場していた。クランコが活躍した時代と今は確実につながっている。

 

いやーほんとに、彼らがいたから今の我々の感動があると思うと、ありがたや。

 

パリ・オペラ座バレエ団『ル・パルク』(2021)inシネマ

油断するとあっという間に時間が経ってしまう。儚い記憶を少しでも留めるためにもメモしておかねば。

 

今回は珍しく王道の古典ではない ≪Le Parc≫を映画館で観られるということで、楽しみにしていた。収録日が2021年3月で、なんと5年も経っているということに驚き。時の流れは本当に速い。

tohotowa.co.jp

 

パリにいた頃、これぞパリオペ!これぞフランス!と衝撃と洗脳で観まくっていた作品の一つである≪Le Parc≫、なので、色々なガラであのPDDが上演されると、そして特にパリオペ以外のダンサーが全幕を踊ることなしにあのPDDだけ踊ることに、どうしても納得のいかないものを感じてしまうのだ。もちろんパリオペのダンサーならよいということでもないけど。(わがまま)

 

さて今回のシネマでの≪Le Parc≫、アリス・ルナヴァンとマチュー・ガニオというすでにオペラ座を去ったエトワールが主演、むしろ最新でない公演を観るありがたみがある。

同時に、つい最近ガルニエで公演があったので、今のエトワールたちの≪Le Parc≫も見たかったなあとも思った。きっと結構違うのではないか。(違っていい)

 

マチューはプレルジョカージュを踊り慣れているわけではないだろう。アリスは以前にも踊っている。群舞としてのマチューというのもなかなか珍しく、久しぶりにみる≪Le Parc≫全幕、楽しかったな。あの衣装、舞台上に漂うあの雰囲気。パリオペにしかないだろう。

こんな風だったっけ??となる場面もあり、やっぱり記憶って儚過ぎる。くっきりはっきりずっと覚えていたいのに。

それから、何度となく観ているPDDも生演奏だとやっぱ違うねー!ピアノとアリスの爪先がリンクするところとか、生の醍醐味。

 

カメラワークがバレエ向きではなく(笑)、もっと引いて舞台全体を!とか、足元まで映して!とか不満になりつつ、そのかわりにダンサーたちの表情や手に寄ったりしていて、劇場では決して見られない見方というのが、シネマでの良さではある。今回はマチューだったので、マチューに寄るなら許す!みたいなね(笑)

 

というかほんとに、美の力って凄いなって。あの最後のPDDについに至った、その場面でのマチューの佇まいに感涙。引退までの数年のマチューの舞台には何度も泣かされたものだが、あの存在を失ったオペラ座がその穴を埋めるのは大変だ…と思った。あらためて。

 

私がパリにいた頃はまだマチューは若くて、イレールやルグリやジョゼや二コラが現役だったし(←充実度やばくない!?)、マチューはまずどうしてもその美貌が目立つという感想だった。そのマチューが経験と年齢を重ねてあれほどドラマチックなダンサーになった。

 

アデューのオネーギンが映像化されないの、ほんと損失。。。(内部的にはあるだろうけど)

 

5年前の公演なのでダンサーの顔ぶれも結構違っていて、誰だろう…名前が思い出せない…とキャスト調べたかったのだけど見つけられなかった。このシーズンの≪Le Parc≫、コロナ禍で無観客で、最初の5公演だけやって後は公演キャンセルになっちゃったのね…。どおりで途中の拍手がないと思った!

それでも収録してくれていて本当に良かった。ありがたや。

 

www.memopera.fr

 

パリ・オペラ座バレエ団『くるみ割り人形』(2023)inシネマ

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2023年12月の公演の収録を映画館で。

ヌレエフ版くるみ割り人形、主演はドロテ・ジルベールとギヨーム・ディオップ。

 

パリオペのくるみ、昔パリで何度か観ているはずなのに、あんまり覚えてないものだな!記憶って本当に儚い。悲しい。この儚さは舞台芸術の宿命でもある。

 

やはりまず言いたいのはディオップ君のすばらしさ。2023年の時点でこの出来だったんだ、すごいわ、というね。去年の夏にソウルで、くるみGPDDを踊るディオップ君を見たけれども、やはりあれは心身共にコンディション厳しかったんだなあと、本拠地パリでの全幕の出来を観るとあらためて思う。

 

ドロテは安定のドロテで、あの大きい目なら劇場最後列まで届くよねみたいな、そういった感想も持つ。若いディオップ君とのバランスは意外にも気にならず、さすがベテラン、少女を演じるのも見事。

 

ヌレエフ版は他のバージョンに比べれば”子供向け感”は少な目だけど、それでも、前半は若干持て余してしまう私。子役たちにとってはものすごく貴重な経験だろう。最後、もっといたたまれない感じで終わったイメージをなんとなく持ってたんだけど、ドロテは割と幸せ感あった。そのあたりの解釈はそれぞれに任されているのだろう。

 

かつてパリで観ていた時、アラビアを踊ってた当時プルミエのカール・パケット、あのシャラシャラと音のする衣装と共に彼のことは妙に鮮明に覚えている。

私にとって、パリで生で観ていた頃の主なダンサーたちはほぼ引退してしまい(ドロテもアデューが近い)、ひとつの時代が終わった気持ちがあって、パリオペへの情熱がまた私の中で沸騰する日がやってくるのか、我ながらちょっと心配。

 

もちろん、ディオップ君のような若き才能が現れるのがパリオペであり、楽しみでもあるのだけど。

 

2023年12月16日・19日 パリ・オペラ座バスティーユにて収録

クララ:ドロテ・ジルベール

ドロッセルマイヤー/王子:ギヨーム・ディオップ

ルイーザ(クララの姉):ビアンカ・スクダモア

フリッツ(クララの弟):アントワーヌ・キルシェ―ル

母:ファニー・ゴルス

父:セバスチャン・ベルトー

雪のソリスト:エロイーズ・ブルドン、ロクサーヌストヤノフ

アラビア:ジェレミー=ルー・ケール、ロクサーヌストヤノフ

クロバット:アントニオ・コンフォルティ、トマ・ドキール、レオ・ド・ビュスロル

パストラル(葦笛):マリーヌ・ガニオ、イネス・マッキントッシュ、シュン・ヴィン・ラム

 

桑原志織 ピアノ・リサイタル

桑原志織 ピアノ・リサイタル | クラシック音楽事務所ジャパン・アーツクラシック音楽事務所ジャパン・アーツ

 

2025年12月10日19時 東京オペラシティコンサートホール

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今年のショパンコンクール、リアルタイムではそれほど聴いていなかったのだけど、公式のYouTubeはリピートしていて、3次あたりでは応援したいピアニストも見えてきて、最終結果が出るのを今か今かと待ったのだった。

 

順位には納得いかない気持ちがありつつも、桑原志織さんが4位入賞。そして東京でリサイタル開催!

 

ひさしぶりの生のピアノの音に圧倒された。なんと豊かな音楽。若手というにはあまりに豊かな、ショパンの人生が見えるような、そんな演奏だった。いやあ、すっかりファン。今後も演奏を聴く機会がありますように。

 

アンコールに英雄ポロネーズ、カッコ良過ぎた。

 

マイクを持ってのご挨拶もあったけど、志織さん喋ってもステキ。音楽家として、ピアニストとして、やっていくのは大変な世界だと思うのだけど、ご本人も言ってたけどショパンコンクールの"威力"をぜひうまく活用もして、この先長い演奏家人生をしあわせに過ごしていってほしい。

 

って、誰目線だ。笑

 

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