アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などパリ・シンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Michael(マイケル)

遅ればせながら観てきた。

www.michael-movie.jp

 

マイケルには幸せな人生を送ってほしかった。もちろん、幸せもたくさんあっただろう。マイケルにしか味わえない素晴らしい瞬間がたくさんあっただろう。それでも、今も生きていてほしかったしもっと多くの音楽を生み出してほしかった。そう思ってしまう。しあわせな最後を迎える権利があっただろう彼には、と。

 

どこまで忠実に描かれているのかわからないので、あくまで映画を観ての感想だけど、特別な才能を持って生まれた人が1人の人間として”普通”に生きていくことの難しさよ!

自分の才能を自覚し、それを世界と人々のために使うというある種の使命感。

「音楽とダンスは世界の共通語」にはあらためて、その通りだと、再確認した。

 

少し前に見た映画「ジョン・クランコ バレエの革命児」でも痛感したことだけど、クランコ自身の人生における苦悩や痛みが、作品を生み出す過程である意味重要な要素として機能しているように思えて、我々はのちに世に出た美しい作品を観て感動して涙しているけれども、その裏では、、というのに胸が痛んだ。

 

世界中でマイケルの歌やパフォーマンスに熱狂する人々のその歓喜や感動の裏で、マイケル個人の人生がどうであったのか。時代や文化的背景はあるとはいえ。

 

この映画は絶頂期のマイケルで終わる。そして我々は特別ファンでなくてもなんとなくその後のマイケルを知っている。辛い。

 

話をでっかくしすぎだけど、モーツァルトのレクイエムをパリのノートルダム大聖堂で聴きながら、ああ、モーツァルトは神に選ばれ者だったんだな、人類のために神が遣わせたのだな(その替わりに人間としてのしあわせな人生は選べなかった)みたいな、自然とそんな気持ちになったことがあったんだけど、なんかそんなことを思い出したのだった。

 

本編最後に『Beat it』のMVが流れたんだけど、今見てもスゴイね!

youtu.be

⚫️⚪️Angine de Poitrine⚪️⚫️

先日のエスプリ・ドゥ・ラ・ダンスの公演が迫るにつれて心配になったのが、私の”Angine de Poitrine中毒”である。彼らの音楽に浸り過ぎて、私は今もバレエを楽しめるんだろうか??私のバレエ脳、まだ生きてる?と不安になるほど。(笑)

フジロックのステージにやってきたAngine de Poitrineを私は配信で見たのだけど、何の予備知識もないところにいきなりこの見た目。ライヴがめちゃくちゃよかった!

どっぷりはまって早1か月。なぜこんなにも好きなんだろう?と自問自答している。

 

※Angine de Poitrine = フランス語で「狭心症」の意

日本語表記では「アンジーヌ・ド・ポワトリーヌ」だが、アンジんドゥポワトリん、くらいな発音である。正確な表記はむずい。ちなみに英語人にも読むのは難しい模様。

 

世界的話題となるきっかけとなった動画↓

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どこか民族音楽を想起させるような色調と、何拍子なのかカウントできない変拍子、そして1曲の中でそれも変化する。曲全体の構造、変化のタイミング、簡単にはわからない、理解できない難解さが、おもしろさと中毒性を生んでるのかも。

 

音源では比較的冷静に聴こえるKlekのドラムのライヴでの推進力は凄い。すさまじい。あのドラムに乗せられてどこまででも聴いていられる。っつーかあの複雑なリズムを正確に刻めるの一体なに者!?(異星人です)

「5拍子や7拍子でみんなを踊らせたい」的なことを言っていたと思うが、こちらのリズム感や音楽センスを試される。難易度高っ!

Khnは音楽をカレッジでも学んたそうで、感覚だけじゃなく非常に理論的に音楽を組み立てているようだ。そもそも1オクターブに通常の倍の24音あり(=マイクロトーナル(微分音))、それを自在に扱いさらにはギターとベースのダブルネック(両方弾く)って、一体どんだけ多機能高性能なのか。その上ライブで演奏しているフレーズを録音してそれをルーパーでループさせながらその上に新たなフレーズを重ねる。で、それらを足で操作。

は??人間じゃないよね?(異星人です)ダブルネックのギター&ベースを弾きながらだよ?絶対人間じゃない。(異星人です)

あと、L’Angineはインストなのがいいのかもね。誰も言語にとらわれない。

 

まず彼らの音楽性と演奏技術の高さがあって、それに加えてあのキャラ設定の見事さ。Angine de Poitrine の Khn de Poitrine(ギター&ベース)と Klek de Poitrine(ドラム)は異星人で、時空の旅人で、333歳で、地球語は話せず、ライヴでは宇宙語とジェスチャーでコミュニケーションを取っている。白黒の水玉、金色でピカピカ光る三角形、長い鼻、大きい頭。ちょいちょい挟むコミカルな動きや宇宙語で笑わせられる。かと思うと圧巻のパフォーマンスでめちゃくちゃカッコいい。このギャップよ!!

この2人、Les Frères de Poitrine(ポワトリーヌ兄弟)はケベック出身で、Khn13歳、Klek14歳の時からもう20年超も一緒にプレイしているのだそうだ。なるほど、地球語必要ないね(笑)

 

たまに、もしこの2人が生身の人間の姿だったらどうだっただろう?と考える。

実際には、もちろん彼らも生身の人間なのだが、この匿名性と異星人という設定のおかげで彼らには新たな自由がある。きっと地元では、彼らがKhnとKlekだ、とある程度わかっているのだろうけども(決して大都市ではないようなので)、友達に聞かれても否定しているそうだし、リアルな人間としての生活を切り離して、Les Frères de Poitrineであることを楽しんでいるように見える。そしてそれが彼らのライヴパフォーマンスでの独特の楽しさを生んでいる。

マスクの下では対外的な表情を作る必要がない。宇宙語なので毎度シャレたことを言う必要もない。みんな彼らの音楽とパフォーマンスに集中している。

なんだろうなあの可愛さは。異星人であっても、人間としての彼らの人柄の反映なんだろうけども。それにしても13歳と14歳から一緒に音楽をやっていて二人ともがこのレベルのミュージシャンになるって凄いよね。ある意味奇跡みたいなもので。

 

Angine de Poitrineはつくづく良く出来たプロジェクトである。衣装にしても、演出にしても。デザイン性も秀逸。(※衣装ではありません、彼らの星では生まれたときからすべてのものが水玉模様です)

 

ADPのジャケット等のイラストを描いているアーティストさんのアカウント

https://www.instagram.com/ariellecorbeau?igsi=ajZkb2d4OTlxYzdj

 

私にとっては彼らが仏語圏であるケベック出身なこともプラスに働いてる。例えばもし仮にドイツ語圏だったら?きっともっと距離は遠く感じたと思う。地元カナダ・ケベックのトーク番組に出演したのを見たけど爆笑だった。カナダにおけるフランス語・フランス語圏の存在、立場、状況みたいなことにも興味が湧いたし、フランスのフランス語との響きや語彙の違いも興味深い。

昔パリで仏語を学んでいた時、「今ケベックで話されているフランス語はルイ16世の頃のフランス語だ」とある先生が言っていた。それを仏人友人に話すと不本意っぽい反応だったけど(笑)

ケベックのあの独特の仏語に注目したのはグザヴィエ・ドラン作品以来だよ。なんなら彼らのライヴスケジュールを追ってカナダ(とアメリカ)の地理も今までは知識ほぼゼロだったけどイチくらいは知った。

”推し”の存在は大きい。(笑)

 

スタジオに入ってくる挙動からしてやばい↓

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貴重な地球語によるインタビュー↓

youtu.be

 

彼らのスケジュール↓

anginedepoitrine.com

 

彼らにとって地元ケベックの音楽産業に貢献することは活動する上で重視していることのようで、どこと契約するか、誰と仕事をするか、といった決断に影響している模様。カナダ国内もしくは北米におけるケベックの歴史や立ち位置、多数派である英語に対する少数派としての仏語、といった”マイノリティであること”が、ケベックの文化そして2人の姿勢に与える影響というのは小さくないのではないか。マジョリティの無自覚な傲慢さといったことに反発を感じる私としては、Angine de Poitrineの姿勢からケベコワの気配を感じとって(その解釈が正しいかどうかはわからんが)、彼らにより共感している気がする。

 

ADPに出会って以来、街中で白黒水玉着てる人を見かけると、(あ、Khn だ)(Klek だ)(△ファンかな)となっている。

存分に聴くためにCD(2枚)を買い、作品解説が読みたくてLP(2枚)も買った。元々動画より文章派でYouTubeアプリなどめっっったに開かなかった私が毎日ライブ動画をみている。

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今年世界的な人気者となったL’Angineは12月半ばまで地球上を移動しまくってライヴの連続。どうか最後まで彼らが元気で楽しんでツアーを終えられますように。また日本にも来て!生で観たい!!!

 

これがADP中毒になって1か月時点での私の現況です。

だいぶ重症。(笑)

 

こんなに何かに心を撃ち抜かれるのは、パリオペのクリスタル・パイト≪The Seasons' Canon≫以来ではないか。

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何か共通点があるのでは…と考えたら、振付家のパイトがカナダ人!(広い)

きれい、美しいだけでなく狂気と闇を感じる。音楽性、身体能力の高さ。かな。

 

フジロックでのライヴ映像、1曲目の冒頭、チューニングに狂いがあって、ループをさせながらチューニングし直して、新たに録音し直して、それを新たにループさせて、それに演奏を重ねてKlekに次のフレーズへのGoを出すKhn、Khnに呼応するKlek、というこの2人の適応力の高さ、人間としての能力の高さ(※異星人です)、Intelligence に惚れ惚れしてしまうので何回も見た。中毒症状は続く。

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エスプリ・ドゥ・ラ・ダンス【Bプロ】

最終公演行ってきた。

www.nbs.or.jp

 

Bプロで一番の印象を残したのはやはり、ギヨームとエンゾの「さすらう若者の歌」だった。Aプロでは見足りなかったこの2人の”今”を存分に。この作品、まさしく若者そのものである彼らが踊ることでしか出せない、等身大の若者の苦悩、喜びが表現されていたと思う。なんと胸に迫ることか。純真なギヨームの瞳、闇を覗くかのような鋭いエンゾの視線。組み合わせの妙。

これ、ジェルマンとユーゴとか、マチューとオドリックとか、イレールとルグリとか、絶妙なペアというのが今までにもあったと思うのだけど、今回のペアも、なんと貴重な機会だったことだろう。

 

イネスとフランチェスコの「ドニゼッティPDD」も良かったなー。細かく難しく求められるフレンチスタイルの美意識を見せてくれて、技術的にはもちろん、オペラ座らしさという面でもよかった。よいペア。本拠地でもよく組んでいるし、本人たちがとても楽しそうで見ていてこちらもうれしい。

後半の「海賊」でも、なんでパリオペで海賊となりそうなところ、Aプロの海賊とは全然違う世界を見せてくれて、こちらはエンゾ含めての3人、ちゃんとオペラ座らしくて満足だった。エンゾは舞台上にいると客席の視線の8割方持っていってる気がする(笑)まだちょっとサポートは経験不足なのかしらね?

 

ブルエンとポールマルクの眠りGPDD、珍しくトラブルがあり、あれは多分衣装トラブルだと思うのだけど、私が気づいたのは途中2度ほどポールがブルエンの衣装を気にして直して(?)いて、その直後だったので恐らく衣装がらみ。何事もなかったかのように踊り切るメンタル、大事。しかし坊主頭でデジレ王子の衣装は、出てきた時ちょっと吹いた。

この2人が踊ったジル先生振付の新作は、ピアノとクラリネットを含めた4人の作品という雰囲気。前日に見たピアノ教師の友人から「クラリネットがとても上手い」と聞いていたのでそこにも注目。テクニックをちりばめるではなく、ダンサーの存在そのものに価値がないと成立しない作品なのではないか、そんな印象。音楽の体現。まあもちろん、素晴らしいダンサーありきですよね。そうでないと退屈になってしまう。

 

Aプロでとてもいいなと思ったカンさん、きっとジゼルも似合うだろうと期待していたのだけど、ジゼルって難しいんだね……となった。なんだろう、期待しすぎたのかもしれないけど、ちょっと違った。アームスだろうか。

ロメオとジュリエットの方も、こちらはロレンツォの力不足が気になってしまい、ロメオがパブロだったらカンさんももっと良かったりする??とか考えてしまったすまぬ。

 

ローザンヌペアについては省くね。Aプロと変わらないので。ジョゼの作品では他のよりよかった。

 

さてドロテ。10月にアデューなので、これが引退前最後だったと思う。同世代のミリアムとドロテでいうと私はミリアムの大ファンで、ドロテへの思い入れはそこまでではないのだけど、ヌレエフを直接知るルグリ世代と若手とを繋ぐ世代としては最後のエトワールかもしれない。マチュー、ドロテ世代がいなくなると、いよいよエトワールが入れ替わり新時代と感じる。オペラ座内でもそうだけど、日本とのつながりという面でも、徐々に人脈が薄まってそうな昨今、ドロテのように日本に何度も来てくれていたダンサーの引退は寂しいものがある。

「ラ・バヤデール」はオペラ座の衣装で、あのゴージャスさには、あれを着て踊れるパリオペダンサー羨ましい!となるけども、衣装だけゴージャスでもむしろ辛いものがあるので、やっぱり芸術そのものであるダンサーの身体があってこそなのよね。引退目前の年齢でも古典全幕を踊るその心意気、それを務めるために払ってきた努力や犠牲を思うと、エトワールという生き方はほんとすさまじい。

ドロテが納得のいくようにアデューの舞台を終えられますように!!

 

とまあ、始まる前の低めな期待度から考えると、だいぶ楽しみました。ダンサーの皆さん、ジル先生、来てくれてMerci !! そして新シーズン開幕までヴァカンス楽しんでほしい。

夜中に地震あったけど嫌いにならないでね。(大きめの地震があると来日中ダンサーの心配をしちゃうよね)

 

公演プログラムでマチアスに言及しているダンサーが複数いたのであらためて、マチアス!復帰待ってるね!!!

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エスプリ・ドゥ・ラ・ダンス【Aプロ】

初日、行ってきた。

www.nbs.or.jp

 

個人的事情によりあまりバレエ気分が盛り上がっていなかったのだけど、それでも、パリオペだから!となんとか頑張って三軒茶屋へ。(大げさ)

 

毎年恒例の夏のガラ、韓国や中国で7月に開催されてたパリオペダンサーたち参加のガラに比べて今年は規模や豪華さがちょっとな~、なんて思ってしまい、円安辛い…と気持ちにウキウキする余裕がなかった。

 

実際のところ、正直そこまでは盛り上がれなかった。とはいえオペラ座のエトワールというのはやはり別格の存在だなとあらためて感じたし、プルミエまで上がるダンサーというのもまた、素晴らしいダンサーなのだと思わせてくれた。

 

ブルエンとポールマルクのペアは、オペラ座のエトワールペアとしての仕事を全うするというか、いやそんなね、義務感みたいなものを踊りから感じたということではなくて、オペラ座のエトワールの踊りというのはこういうものなのです、という体現が素晴らしいなと。こういったガラでエトワールとして参加するということの意味。大変だろうにとつい考えてしまうが、本人たちにとっては当たり前のことなのかもしれない。それを担えると見込まれたからこそのエトワール任命。

 

もうひとつのエトワールペア、ドロテとギヨームの方は、こちらは引退目前の大ベテランから若手へという、transitionを見せられているような。そしてギヨームはこういう作品も踊り演じるようになったのだなあと、棒立ち気味になることもあった来日白鳥王子の頃から考えると経験と成長を確実に感じる。しかしおそらく疲労を考慮してなのかなあと思うけど、「ル・パルク」と「ランデヴー」は、作品の内容を考えると年齢差がありすぎたねさすがに。

 

エトワール以外では、カンさんがとても素敵だった!作品がとても合っているのだろう、美しさや正確さなどフレンチスタイルを堪能。パートナーのロレンツォは以前より危なっかしさがなくなってて予想よりよかった。

イネスとフランチェスコのペアはオープニング作品ではまだ客席がついていき切れてなかったけど、後半のドンキでは持ち味発揮、楽しそうでとてもよかった。イネスといいカンさんといい、プルミエール、レベル高い。

 

そして、あれ、エンゾ踊ってない、と思ったら後半の黒鳥パドトロワにロットバルトで登場。これはあれですね、Bプロもちゃんと観に来るように!というメッセージというか(笑)

このロットバルトありバージョンはとてもよくて、ヌレエフ版の魅力がよくわかるよね。いつのガラだったか、アリュが降板してパドトロワがパドドゥになってしまったことがあった。ポールマルクは省エネかなと思ったけど、ブルエンは黒鳥がとても似合ってた。

なんの装飾もない舞台で白鳥三幕のあの場面を演じ、物語をみせる。周りの情景は脳内の記憶で補完するとしてシャンデリアもないのね…上野ならなあ…などと思ってたらエンディングではシャンデリア2つ下がってたんですけど!!あるならあそこでも使ってよ!!

 

このポールマルクの省エネにも見える全く力みのない美しさというのが、ワグマンとの対比があまりにも鮮やかで、格の違いを明らかにしていた。フランチェスコもドンキでは技を披露していたけどもガラ感ありつつやり過ぎない。エレガントであることが前提。それこそパリオペらしさでもあると思う。

あのコリフェペアには、(なんじゃそれ)(ローザンヌかよ)などと脳内でつっこみが多発してしまいもうおなかいっぱい。

あんなに見事なお手本が目の前にいるというのに、なんなんすかね……

 

あれを喝采する側もどうかと思うんだけど…どうなの?客にウケてるからいい!これからもこの路線でオレは行く!ということならなぜオペラ座に入った…という気もしてしまう。わざわざオペラ座のガラに必要な要素なんだろうかそれ。ジル先生、その辺どうなの?たしか彼は1年カナダで踊ることにしたんだっけ?もしかしたらオペラ座の枠が息苦しいのかもしれないね。

 

セット券で買っていたBプロのチケットを諸事情により手放していたので、Aプロを観て良かったら会場で買い直そうかな、と思っていたのだけど、即決できず、結局一晩寝てからポチったのであった。

ちゃんとBプロも行くよ!

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Les Barbares(バーバリアン狂騒曲)難民映画祭パートナーズ上映

新しくできた大井町トラックスのTOHOシネマズにて、アトレ主催の難民映画祭パートナーズ上映で≪Les Barbares≫(邦題:バーバリアン狂騒曲)を観た。

 

監督:Julie Delpy / フランス / 2024年 / 101分 /コメディドラマ
ブルターニュ地方の小さな村パンポンでは、地域住民がウクライナのニュースに心を痛め、ウクライナ難民の家族を村に迎え入れようと準備を進めていた。ところが到着したのはシリアからのファイヤド一家。そこで露呈したのは、古くからの偏見であった。住民たちの心優しさは、本当の思いや偏見とともに試されることに。美しい自然の中、伝統を重んじる村で、難民との交流を通じて浮かび上がる受容と偏見の物語が、ユーモアと温かさをもって描かれる。

https://www.japanforunhcr.org/how-to-help/rff-partners/lineup

 

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パンポン村ではウクライナ難民を受け入れることになり、ローカルテレビの取材も入って張り切る村長。受け入れを良く思っていない住民も一部いたのだが、実際にやってきたのはウクライナ難民ではなくシリア難民だった。ここで人々の本心がにじみ出る。

フランスらしい毒のあるコメディで、ベタではあるが、このテーマなのであればそれもまあわかるかな。監督は主演も務めたジュリー・デルピー。

 

パリなど大都市では既にあまりに多様なのでこうはならないだろうけど、地方の小さな村に、戦禍のシリアを逃れて1つの家族が辿り着く。簡単じゃないよね。圧倒的マイノリティ。言語や文化の隔たり。偏見や差別。

地元民だって別に裕福にラクに暮らしているわけではない。難民が優遇されているように見える。なぜ自分たちじゃなくて彼らなのか。フランス人、ブルトン人を優先するべきじゃないか。(最近よく聞く主張だわね)

 

さてここで、日本ではどうだろうと考える。日本にも、同じようなことを言い、外国人への反感や差別を煽る声がある。本作の中で「人種差別は恐れからくる」のだと小学生の子供たちに語る場面がある。誰かを差別せずにはいられない人には、ぜひとも、自分が本当は何を恐れているのか、何が不安なのか、よくよく考えてみてほしいし、私も常に振り返ることを忘れないでいたい。

そしてこの状況において、デルピー監督のように、現状を見つめ、受け入れ、良いところも悪いところも描く。そういう映画を撮れるかなあ日本で、と考えると残念ながら想像できない。

あと、日本は圧倒的に受け入れ難民数が少ないからね。あまりにも少ない。恥だと思う。

 

映画としてはベタだけどコメディだからまあいっか。重たくなりすぎず、気軽に観られる作品。(軽すぎるという意見もあるかもしれないけど)

 

それにしても新しい環境への適応力は大事だなあ。新たな環境に馴染もうと行動できるかどうか。変われるかどうか、変わることを受け入れられるかどうか。ここは家族内であっても温度差があり、適応のスピードにも差が生まれ、場合によっては家族がバラバラになってしまう可能性だってある。

これは本作でいえば難民の人々にとってはもちろん、受け入れる村人にとっても同様。

 

テーマとしては先日観たケン・ローチ監督の『オールド・オーク』と重なり、その重さ軽さは違うけど、ヨーロッパにおいて移民・難民との共存が様々な問題をあぶりだしていて、それをテーマにした作品が作られている。ダンス・バレエでもあるもんね、そういうメッセージ性のある作品。

 

本作日本語字幕作成チームの一員だったという俳優の中島唱子さんが会場で、字幕制作に参加するに至った経緯など語ってくれた。50代での新たな学び(字幕翻訳)、勇気づけられる。

 

作品自体はフランス映画で、大半がフランス語(英語字幕付き)、一部アラビア語、英語も使われている。英語以外の言語に対して英語字幕が付き、その字幕を日本語に訳したのだと思われる。

 

本作、今オンラインで配信しているそうなので、興味があればぜひ。

7月31日まで。(↓シワシワすまぬ)

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ロイヤルバレエ来日公演2026『ジゼル』

今回のロイヤル来日、私は『ジゼル』1回のみ。サラのジゼルを観に。

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サラジゼルの可憐さ、健気さ、儚さ、美しさ。ジゼルのあれほど深く大きな愛に見合う男だったのかお前は!と言いたくなる。あまりにサラへの愛が強すぎてサラ以外への興味が薄らぐ私。(笑)

サラが舞台上にいない時間は、(なんでこれ観に来たんだっけ、あ、サラジゼルだからだ)と何度もなってしまい、正直来日公演の高騰したチケット代に対して、期待値を上回れるかどうか微妙だなと感じる。まあ仕方がないのよ、円安過ぎるからね。

納得できる可能性が高い作品としては本家たるマクミラン作品だと思うけど、チケットの売りやすさを考えると『ジゼル』のような、幅広い客層を想定できるものになるのかな。

 

話は逸れるが、コンクールでよく見る有名なヴァリエーションが含まれてるので、せっかくならあのVa.はどんな場面で、どんな状況で踊られているものなのか、というのを全幕でぜひ理解してほしいよね。コンクール見てるとなんか、文脈関係なく踊ってる感ある。

 

ロイヤルの演技力が、一幕のジゼル母やバチルドらの様子によく表れてる。リアリティ、説得力がある。

一方、別世界に連れて行ってほしい二幕ではどうだろうか。あれは精霊たちなんだろうか。私の目には、人間が精霊の役を踊っています感がある。あくまで血の通った人間なのだよね。脚を振り上げるのも活力を感じてしまう(笑)とにかく軽さやあの世感はない。

 

2020年オペラ座の来日公演での『ジゼル』を3キャストで観ているのよねえ。コールド含めオペラ座の『ジゼル』はさすがですよやっぱり。※パリオペファンの個人の感想です

 

そんな中で唯一儚さをまとい続けているのがサラジゼルで、それを浮遊させる平野さんのリフトも見事。本当に消えてなくなってしまいそうなジゼル。そんなジゼルが凛とした強さでアルブレヒトを救う。救われるに値する男だったのかアルブレヒト……(また言ってる)

 

サラの儚いながらも真の強さや知性を感じさせる役作りが大好き。浅はかなアルブレヒトはその本当の価値に気づいてなかったのよ。1人生き残りやがって。(まだ言う)

 

サラのピケアラベスクの美しさ。過剰な演技によってではなく、ピケアラベスクによってその人物の性格や、その場の感情を表現する。これぞクラシックバレエなのではないか。

 

NHKホールは駅から遠く、不快度高めな中を15分以上歩かねばならず、帰りも余韻が吹き飛ぶ下世話界隈なので、東京文化会館早く復活してー(切実)

 

あと、これもホールのせいかもだけど、ミルタが投げた枝が床に落ちた音が「ドサッ」「ドサッ」と響き、百合の花も音がして、ウィリたちの足音もドタドタするし、あれはちょっとなんとかならぬのかと思った。

 

ほんと、古典の世界作りって大変だね。

 

カーテンコール、サラを全幕で観られるのはもしかしたらこれが最後になるかもしれない、との思いで再ウルウルした。また会えますように!!

 

 

追記:

私は今年かつてないほど生の舞台を観ておらず、そして主にパリオペ勢を中心に観ているので、最近の国内カンパニーには疎い。海外とのレベル差は縮まっているもしくは上回る面もあるという意見は、きっとそうなんだろうな、そう言えるくらいにレベルが上がったんだろうな、というのは想像に難くない。今回のロイヤル来日を見て、意外と差はないなと思ったりするんだろう。

一方で、観る側の好みの問題は常にある。今まで何度も書いているけど、同じ作品同じ役であっても、海外勢と日本勢でアプローチが違う(特にマノンやジュリエットなどに顕著)。違っていい。観る側はその違いに気づき、好みによって取捨選択をする。

私にとっては女性像がどう表現されているか、どう解釈されているかはとても大きな要素なので、その面でモヤモヤが残ったものは次回選びにくい。それが最大の理由。

やはりどうしても、日本における女性の立ち位置、みたいなものがにじみ出てると思うのよ。ジュリエットとしてどう振舞うか、ジゼルとしてどう振舞うか。そこに”日本人らしさ”があるとして、それが悪いというのではなく、バレエの世界の中でさえ、現実世界の現状を追認するのは私は嫌だな、と感じる。まあ結局のところ個人の好みや理想像の違いなので、どちらが良いとか悪いとか優れてるとか劣ってるとか言いたいのではない。

 

かつて、新国白鳥にザハロワが客演したのを見たときのような衝撃は、今はもうないだろうと思う。あれのせいでその後数年、私は国内カンパニーの公演から足が遠のいた。いまや海外からスターを呼ばなくても成り立つのは素晴らしい。それぞれのカンパニーが個性的に、そしてレベルアップしていくのがよいのだろうと思う。

 

『急に具合が悪くなる』(Soudain)

www.bitters.co.jp

 

3時間超の作品。真理とマリー=ルーの出会いから別れまでと考えればそれだけの長さが必要だったんだろう。

日本とフランス、日本人とフランス人、日本語とフランス語、自分の経験と重なるところもあるのかなというのも観てみようと思った理由。

そして国籍や文化や背景が同じでなくてもわかりあえる、大事に思い合える、通じ合える人がいる、というのが実際にあると経験から知っている者として、真理とマリー=ルーの関係を、あり得るだろうな、幸運だなと感じる。

それにしてもつくづく私は人と人が、異種異文化にも関わらず共感共鳴することにめちゃ弱い。マリーが真理をパリに連れて帰る提案するとこまじやばかった。(語彙貧)

 

理想を掲げることの大事さと、とはいえない袖は振れない的な現実と。人生は”理想”をセットし、そのために動き、学び、妥協し、過程に喜びや意味を見出すものなのかもしれない。台詞にあった「何も残せない」が何を想定しているのか考えているが、圧倒的大多数の普通の人々にとって歴史に名を遺す的な遺産はないわけで、誰かの心に残るという他者なのか、それともその時まで自分自身が成してきたことの記憶や手触りみたいなものなのか。究極、自分の中に何かが残ればそれでいい気がするな。なんなら最終的には残らなくても。

 

どこかどうとうまく言語化できないのだけど、日本人監督とフランス人らヨーロッパの監督が撮るもので、何が違うんだろうなと。私が日本人だから、日本の監督が言わんとすること、意図していることを勝手に感じ取り過ぎてしまう、逆に、外国人監督の作品ではそこまで深く文化や歴史やコンテクストを理解できていないから、余計なことが気にならない、ということはあり得るかもしれないなあとは思う。

 

私は主に人間的な面の感想を持ったけど、認知症や施設の在り方、介護の手法や予算といった社会的な面から見ても、論点盛り沢山な作品だった。ヨーロッパ的、カンヌ的な作品で、あちらから見ても共感でき、かつ日本的要素が絶妙に織り交ぜられているのが好印象だったんだろうな。

そうなのよ私たちは同じ人間で、普遍的な感情があり、わかりあえるのよね。

The Old Oak(オールド・オーク)

公開になっていたのを見逃してた。間に合ってよかった。

oldoak-movie.com

 

ケン・ローチ作品は容赦がない。我々の問題を直球で突きつけてくる。

冒頭、到着したシリア難民たちを嘲る地元住民の一部。見ていてめちゃくちゃ居心地が悪い。現実世界で、日々SNS上で目にしている光景を映像化して見せられているようだから。バリバリ我々社会の話でもある。

 

英語ができて理知的なヤラが難民たちの中にいてよかった。コミュニティとコミュニティ、分断を繋ぐ役割を負うポテンシャルを持つ人。まず何より言葉の問題は大きく、自分が理解できない言葉で会話が展開していく時の疎外感、場合によっては苛立ちというのは、難民側であれ地元民側であれ、ある。そしてその片側だけが一方的に強いわけでも、弱いわけでもない。豊かな国のはずなのに、食べるに事欠く子供がいる。(日本も同様)人助けなんかしてる余裕はないんだよ、という悲鳴の裏返し。

しかしそれでもその壁を越えて、共感、共鳴できるのが人間たるものだと思う。

 

『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』と見てきて、本作はその、人間としての共鳴する場面というのが、ちょっとあまりにべたかなあという気もした。でももしかしたら、これくらいでなければ伝わらないという不安や強い思いもあったのかもしれないと勝手に想像した。分断の深刻さを憂う気持ちと、人間の良心を信じたい気持ちと。

 

あと、イギリスのパブという存在は貴重だね。パブがあるから、完全には物理的には分断されず接点がある。あの人たちに唯一残された居場所。ある意味で公共施設的な。(まあ「Pub」だもんな)

日本だとなかなかああいう場を見かけない。シンガポールだと公園におじちゃん・おじいちゃんたちが集まって将棋(かな?)やってるんだよね。どんな形や内容であれ他人と関わる場面がなくなってしまうと、孤独や不満の行きつく先が心配。

 

いつの時代も振り子は振れていて、難民ウェルカムの時期を過ぎれば今度は、難民が多すぎると排外主義が台頭する。ヨーロッパがそう。アメリカで例えるなら、オバマについていけなかった人が、トランプに心酔する。みたいな。日本の場合は振り子というより真っ逆さまな気もするが。

 

監督が批判するのは排外主義で差別主義の住民ら個人のみでなく、日々の暮らしに苦しむ住民を救わない、救う気のない為政者、炭鉱が閉鎖された頃からそれが続いてきた状況、他国の独裁者の非人間的な振る舞いを止められなかった世界に対する批判。虐げられ苦しむ人々を傍観してきた各国。

 

じゃあ我々個人は、私は、何ができるだろう。

せめて忘れずにいなくては。

 

 

 

 

ロイヤル・バレエ in シネマ『ウルフ・ワークス』

tohotowa.co.jp

 

マクレガー作品の世界に浸ってきた!

無教養で申し訳ないがウルフの作品を読まずに観に行ったので、原作との行ったり来たりは出来ないままなのだが、マクレガーやリヒターをはじめこの作品を創り上げた皆さんすげー!となった。カンパニーの力の入れ具合、層の厚さよ!(語彙が貧しい)

 

そして現役バリバリの振付家の作品をレパートリーとして持つことは、時代に合わせてアップデートできる点、そしてダンサーらにとっても直接理解が深まることなど、現代を生きるバレエ!という感じがする。

 

ウルフ役のオシポワはこういった役への没入感、役を生きる凄みというのがとても魅力的。1幕、若きクラリッサが踊った後にオシポワが動くと、残酷なまでに深みが違う。踊るではなく生きるを体現するダンサーなのだと感じた。さすがである。同じように、初めて見たパトリシオ・レーヴェも、手の先の動き、視線といったところから独特の魅力を醸し出すダンサーだと思った。

 

2幕の盛り上がりは見事な造りで、これは観客はみんなテンションMAXだね。生で観てみたい。しかしステージの暗さとメイクでダンサーの識別があまりできず、日本人女性ダンサーの区別がつかなかった(笑)

 

3幕のあの感じが私はとても好きで、2幕のようにガンガン踊るのもカッコいいけど、どうにもならない無力さとか、救われない感とか、よかったなあ…。

 

それにしても創作に参加しているスタッフが豪華で、見事に融合していて、やっぱりバレエは総合芸術だわ。そしてマクレガーのインタビューでも言ってたけど、”バレエ”の概念を広げているよね、バレエ的なものの領域を拡大している。

 

あと、ロイヤルを見始めてそれなりに年月が経つと、ローザンヌのあの子がもうこんな役をやるように!みたいなことになり、そうなると以前からいるプリンシパルたちも、引退が近づいていたりするのかしらとも考える。ロイヤルは定年あるのかしら?マルコはマクレガー作品では結構大きい役をやっているけどなかなか昇進はしないね。なんでだろ。

 

日本人ダンサーが多く所属していて、日本の観客としては親近感を持ったりするのかもしれないけど、私は日本人女性ダンサーの表情の作り方に苦手パターンがあって、今回はそれだった(一幕)。その表情、どういう感情を表そうとしているの?うれしいの?悲しいの?切ないの?しあわせなの?正直マジでわからない……。

これ新国などを見ていても思うことで、もともと日本人は感情表現苦手みたいな先入観というかそういうのがあってのそれへの対抗なのかなとかいろいろ考えてしまうのだけど(苦手とは言わせない的な)、その眉による表現というのはどこから来たのですか?とずっと眉を見ちゃう(笑)

 

全然関係ないけど昔、たまたまテレビで見たスーパーのレジの店員さんの接客スキルを競う全国大会みたいなので優勝した人(だったと思う)が、お客さんに向かってああいう眉を下げる表情を作り「申し訳ありませーーん」と言っていたのが思い出される。多分私にとって違和感のある表情なんだろう。なんかあれを連想しちゃうのよね。

 

バレエに話を戻す。

上映の日のキャストシートはこちら。

Woolf Works | Cast Sheet | February 9, 2026

そして他の日のウルフは?と見てみたら、サラもネラも踊ってるのね!!

サラの日も映画館でやってーーーー(わがまま)

 

しかしこういう作品は教養が試される。未熟で辛い。

 

劇場専属舞踊団について

Noismが新潟市のりゅーとぴあ専属舞踊団として活動して22年になるという。2004年設立だから、なるほど22年。そしてこの間、Noism以外には劇場専属舞踊団は生まれなかった。結局日本には、新たに舞踊団を抱えるだけの予算、信念、ビジョンといったものを持ち合わせる自治体はないということなのか。数日前に新潟市芸術文化振興財団が出した次期芸術監督の公募には、最近のNoismを追えていなかった私には「はあ??」というものだった。

 

芸術監督の公募について | ニュース - りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館

 

私は以前バレエやクラシック音楽をメインにライターをしていたことがあり、金森さんに会ってインタビューしたことも数度ある。当時は金森さん自身は踊っていなくて、ご本人に向かって「ぜひまた踊ってほしい!」などと無邪気にお伝えしたことを覚えている。

 

当時から行政を相手にNoismの存在意義を説明、説得することに金森さんは相当な労力を取られている印象だった。数年で変わる担当者、選挙で変わる為政者。またゼロから説明か…みたいなことは容易に想像がつく。金森さんは100年続く存在を想定してお話されていたけど、行政側の実務のサイクルとはあまりにも相性が悪い。そういう状況の中で孤軍奮闘されているのだなあと思っていた。

 

行政側から見ると、Noismの存在を一般市民にどう説明するか、納得してもらうかが必要なんだろう。市のお金を舞踊団に使う、それに対して「無駄なのでは?」「他にもっと優先すべきことがあるのでは?」という意見はいかにも出そう。

 

文化芸術の存在意義を言葉や資料で説明するのは難しい。私はライターとしてバレエ、ダンス、音楽などを”宣伝紹介”する側であったけど、たとえ相手が友人知人であっても、良くわからないけどそれなりのお値段するチケットをわざわざ調べて買うという手間と費用を実際にかける人は、滅多にいない。私の力不足はもちろんあるけど、他人の気持ちを動かすというのは、一般的に言っても難しいことだと思う。

ましてそれが文化芸術となるとなあ!

 

また近年のNoismを観て感じていたのは、金森さんと金森さんにとってのミューズとしての井関さんが別格の存在で(0に山田さんはいるが)、若いメンバーは数年で入れ替わるという形が気になる。若いメンバーがNoismに憧れて加入し、しかし諸々の条件や環境により数年で辞めていく。(実際のところはわからないけど)

中堅がいないことで、創作や出来上がる作品の内容になんらかの制約が生まれ得るのではないかなあと勝手に心配してしまう。若手が長くいられないのが給与などの待遇面なのであれば、その改善を財団に要望するのは当然のことだと思う。

しかし現状だと、悪循環のようにも見えて、仮にこの先も”絶対的プリンシパルと永遠のコールドバレエ”なのであれば、どこか別の活躍の場を探そう…となるのも自然な気がする。そして常に中堅が不在が続く。(完全に私の妄想です)

 

過去の感想:

cocoirodouce.hatenablog.com

 

財団がHPで芸術監督を公募しますと突然発表するなんて、ずいぶん喧嘩腰だなと感じたのだが、これまでの経緯を確認すると、金森さんの任期5年の期限が2027年8月で、次の5年のオファーは断っていたとのことだから、次の人を探すのはまあ当然のことなのかな。そしてNoism側は次期監督に井関さんをと言っていたようだから、それはちょっと無理だよね…となるのもわからないでもない。(当事者同士のコミュニケーションの仕方は別問題として)

公の施設に専属する団体として、長期間にわたって特定の個人だけが関わっていくのは一般への説明が難しい。トップが金森さんから井関さんに替わったとてその問題は変わらない。

例えばBBLであっても、絶対的トップが君臨する組織というのは潜在的に問題を孕む。

 

新潟市にはNoism側が納得できる環境を用意できなかったし、Noism側は行政と妥協することができなかった。結局のところ、やっぱりお金の問題は大きいのかしらね。要望を叶えてあげたくともないものはない的な。地方都市の予算規模は、年々縮小することはあっても増えることはなさそうだし…。あとはそもそも、もはや新潟市がNoism事業への関心が薄れてしまったのかも。人の入れ替わりにより。

そして我々一般市民も、どこかで仕方がないと思ってしまっているような。それも良くない。かと言って新潟市民でない者として何ができるのか、それも歯がゆい。熱いファンがりゅーとぴあまで遠征しているのを見る度に、行かなくてすまん…みたいな気持ちが薄らと湧く。

趣味であり楽しみであり人生を豊かにしてくれるものであるのは確かだけれども万人にとってそうなわけではないものと行政との相性の悪さ、またそういったものが自分たちの生活、社会にあって当然なのだという共通意識のなさ。22年あっても変わらなかったかー、というのはある。

 

新潟市と当財団は、令和9年(2027年)8月末までの現任期満了をもって金森監督が退任意向を示されたことを受けて、同年同月末でNoism Company Niigata事業を終了いたします。

と財団HPにはあるので、全然違う何かになるのかもね。Noismはもう手に負えない存在なのだろうから…。

 

どこか、Noism招聘に手を上げる自治体が現れないものかしらね。近所にNoismいたらヤバい…ヤバすぎる…(妄想)

 

金森さんは東京バレエ団に振り付けた全幕バレエ『かぐや姫』が来年ガルニエに招聘されている。任期満了後もきっと活躍を続けていくことだろう。Noismを経たダンサーの皆さんにも、活躍の場がありますように。

 

カンパニーについて | Noism Web Site

 

追記:Noism自体の活動は続くとのこと、良かった!