アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Oppenheimer(オッペンハイマー)

日本公開前からさまざま話題になっていた本作。

www.oppenheimermovie.jp

のちに”原爆の父”となったオッペンハイマーが指揮したロスアラモス研究所とその成果、そしてその成果がオッペンハイマー自身や世界にもたらしたもの。

 

ざっくりとした感想をまず言うなら、大作である割に(そして賞レースでも評価された割に)さほど後に残るものがなかったような。(これは好みの問題)そうだったのね、という淡々とした気持ちと、翻って同時代の日本はどうであったか、同時代を描いた邦画はどうであるか。暗澹たる気持ち。

 

科学者たちが発見や研究に夢中になり、敵対国との競争に勝とうと夢中になるのはまあわかる。戦時下となれば平時とは違った圧力があるだろうし、”高揚感”みたいなものもあるんだろう。そして研究し開発し実験し、それが完成してしまえば、それをどう使うか決める場からは締め出される。締め出されて初めて、そして自分たちが作り出したものが現実に使われて初めて、事の大きさに気づく。まあありそうな話だし、そうだろうなと思う。

 

オッペンハイマー個人がどう思っていたかというのにはあまり興味はなくて、というのも彼の本心は、その後の人生の間に考えが変わることもあったろうし、不当な扱いを受けたことも結局のところ政治に翻弄されたわけだし、本人にしかわからないこと。懺悔するべきとは言わないが、自分が主として関わった技術が世界を変える武器となり、それによって22万人が死んだ、それについて、別に全然気にならない、となるとすれば倫理感ぶっこわれてるよね。

ただオッペンハイマーの場合、その後糾弾され、尽くした国や世間からの評判も失い、FBIの調査対象となり続けたのであれば、そのことはもしかしたら罪悪感を軽減したかもな、とも思う。

そしてまた彼が聖人のようには描かれておらず、長所も短所もある人間で、ある人間が特別な才能と権力を持った時、どう制御が効くか効かないか、効かなかった場合の怖さのことも思う。(規模は違うがイーロンマスクとか)

 

またアメリカという国が原爆の日本への使用を正当化するのは、当時はそうであったとしても、こういう映画が作られるくらいには年月が経ち、人々の考えにも幅が出てきているということなのかも。まあこの点についてはきっと、いつまでたっても平行線な気はするけど。

 

科学者らが”よかれと思って”開発したものが、想定外のマイナスの影響を与える可能性は常にあるし、今なら例えばAIとか、その危険性に言及する人とそうでない人の両派がいる。GAFAなどを見てきて彼らは、これもできるあれもできるこんなに便利になる!何が悪いの?という傾向があると感じるが、今に始まったことじゃないんだろな。性(さが)なのか、文化なのか。

 

それにしても、よくもまあ、ああいう国(当時のアメリカ)を相手に戦争なんかしましたよね当時の日本。まったく呆れる。彼らがああいう生活をし、ああいう研究をしていた同時期、日本人の生活はどうで、どんな研究をしていただろうか。そしてそれを振り返って映画など作品にしようとしたとき、それぞれどんな描き方をしているだろうか。

 

どこを切り取り、何を誰を描き、観客に何を伝えようとしているのか。それを考えたとき、当時の科学技術力の差と共に、現在に至るまでの過去の振り返りや文化力にも、差を感じてしまう。残念ながら。

 

物足りなさを感じつつ、こういう作品が作られない世の中よりは、よかった。