アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Ghasideyeh gave sefid(白い牛のバラッド)

longride.jp

 

原題はペルシャ語(たぶん)で仏語タイトルは≪Le Pardon≫、英語では≪Ballad of a White Cow≫、日本語は英語からの訳。

 

イランのテヘランが舞台。夫が死刑となり、耳の聞こえない娘ビタと2人で暮らすミナ。ミナを演じているマリヤム・モガッダムは監督も兼ねている。イランの女性監督だからこその映画だ。

(※結末については書かないでおく)

 

社会の中で女性がどう扱われているか。家を借りるのも大変で、家族以外の男性を家に入れたのを見たと大家から追い出される。義父からは娘の親権をめぐり訴えられ、義弟はミナの立場の弱さに漬け込もうとしてくる。あの図々しさ。

 

そして死刑がどうみなされており、どう運用されているか。その理不尽さ。すべて「神」の名のもとに受け入れることを強いる・強いられるのを許容するのか。

 

イランは年間200人くらい処刑されているそうだが、日本にも死刑制度があり、死刑が執行されたニュースが出るとEUなどから毎度批判されている。

 

ミナの夫は処刑された後になって冤罪だったことがわかる。殺してしまったらどうにも取り返しがつかない。日本の司法制度でだって起き得ること。でも日本の多数派は死刑制度に賛成なんだよね…。もし冤罪だったら?って可能性を0.001%だって考慮しなくていいのか?私は死刑制度には反対。替わりに懲役300年とか絶対に出てこれない長さも科せるようにしてほしい。無期懲役は出所してくるので。

 

取り返しのつかない誤審をした判事レザは罪悪感に苛まれ辞職する。

 

死刑制度は、冤罪で殺される可能性と、誤って無実の人を殺してしまう可能性、その両方の苦しみを生む可能性があるのだな。これまで判断を下す側の負担はあまり考えたことがなかった。

しかし判断を下す側の罪悪感を軽くするために「神」はいるんだろうか。なんだかズルい理屈だなと感じる。

 

レザが助けたいと思う気持ちも、名乗れない気持ちもわかる。が、ミナ親子との距離が縮まるにつれ、観ていて緊張してしまった。いたたまれない。

 

賠償金が払われることになっても、ミナは納得しない。あくまで判事の謝罪を求める。が、本人に会うことすらかなわない。

 

自分が知らなかった思いがけない事実に直面した時、自分がミナの立場だったらどうしよう。どう戦い、どんな結末を選ぶだろう。

過去と現在、そしてこれからの人生。いや、ミナにとってはまだ過去ではなかったのかもしれないな。。

 

女性が生き難い社会、神、死刑を含む裁判の制度、家族、兵役、麻薬などイラン社会の問題が詰まっている作品なのだろう。別世界の遠い話ではない。そして本作はイランでは上映許可が出ず3回しか上映されてないらしい。闇。

 

観て元気が出るタイプの作品ではないけど、観てよかった。

 

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