アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

マルセイユバレエ団『コッペリア』(1975)

本家の『コッペリア』がどうなのかと検索したら、なんとどなたかがプティ本人がコッペリウスを演じてる映像を上げてくれてた。

 

youtu.be

 

キャストからしておそらく1975年の公演だと思う。

カレン・ケイン/ルディ・ブリアン/ローラン・プティ
収録:1975年 マルセイユ歌劇場

ではないかな?(たぶん)

 

いやあ、なんか、色々なるほどなあーーーってなった。あの振付はこういうことだったのかと、答え合わせをしているかのよう。いやもちろん、”正解”がこれ唯一ということではないのだけどね。腑に落ちたというか。プティ本人のまるで素の仕草かのような、そこから生まれた振付だったのだね。

これは「こういう振付だから」と同じようにやるだけでは成り立たないわ。演じるダンサー自身の、自分のキャラから生まれるものがないと難しいのではないか。コッペリウスに成り切った自分自身の立ち振る舞いとして。

 

街中の人々(コールドバレエ)も本当にその辺にいそうだなっていう雰囲気。演じてますではなくて、そこに暮らしている人々という感じ。フランスが舞台でフランス人たち(とは限らないけどマルセイユバレエのダンサーたち)が踊っているのだから当たり前と言ってしまえばそれまでなんだけど、まず圧倒的に大人だよね。そして立体的。体格の違いもあると思う。

 

やはり舞台はそれが上演される社会を反映しているのだなあと実感する。女性像の違い。骨太感。

 

バレエ仲間から興味深い論文を少し読ませてもらったんだけど、クラシックバレエにおけるジェンダーについて、もともとポワントを履いて踊る女性ダンサーは男性ダンサーの支えがなければ倒れてしまう、そういう”か弱さ”が女性らしさとして表現されていた、といった内容があり、ポワントにフラジールなイメージがなかった私は「まじかー!!」となったのだけど、ポワントが登場した当時と現代ではダンサーたちのテクニックは段違いだろうし、時代と共に女性像の変化もあっただろうし、女性自身も変わってきたはず。

 

しかしここ日本においての女性像というのは、男性目線を意識した、男性に可愛いと思われるかどうか、といった評価軸からいまだに抜け出せてない。そしてそれをダンサーたちも内包している。私はそれを見せられるのが辛いんだなと、あらためて自分の心境を整理できた。もうね、『マノン』の時からずーっと言ってることではあるんだけど。

 

ただ、新国オンライン配信最終日に見たキャストでは物語として見られたから、本家とはまた違ったバージョン(?)があってもまあそれも一つの選択肢なのかなと。ノイマイヤーの『椿姫』がそれぞれ違うように。それを上演する社会の観客に受け入れられる必要もあるだろうし。

でも、そこに迎合するだけが芸術じゃないとは思うね。

 

それにしても、『コッペリア』についてこんなにいろいろ考えることになるとは!

あらためて新国の4公演無料配信ありがとうございました。