アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Die Wannseekonferenz(ヒトラーのための虐殺会議)

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ドイツ語の原題は「ヴァンゼー会議」。1942年にヴァンゼー湖畔の邸宅で行われたユダヤ人問題の”最終的解決”について話し合う会議。国家保安部、ナチス親衛隊、省庁の次官らが集まり、ヨーロッパ内のユダヤ人をどう”最終的解決”するか、その会議の内容を実際の議事録を元に映画化している。

 

当時の会議の議事録が残っていて、そして会議から80年経ったドイツで映画が作られる。それだけですでに凄いと思った。(日本に置き換えて想像してみてよ…)

 

淡々と描かれるヴァンゼー会議がその後何十年も戦慄の記憶になってるアウシュビッツ収容所などで行われた大量虐殺の実行に至る、その静かさが恐ろしかった。

 

軍人と役人では立場も考え方も違うわけだから、賛成反対の意見があるのかと思いきや、多少の異議はあるもののユダヤ人を”最終的解決”することには誰も反対ではないのだ。”最終的解決”とは、ユダヤ人を虐殺し、この世の中からユダヤ人を抹殺すること。

これは総統の希望であり命令だから、それを実現するためにどうするか、効率的に実施するのはどうするのがいいか、淡々と、超ビジネスライクに会議は進んでいく。途中軽食を取ったり飲み物を飲んだり、なんなら「感じがいい」とも言える。

 

そもそもはユダヤ人が悪いのだ、ユダヤ人が”最終的解決”されることになったのは自業自得なのだ、というスタート地点から間違えてるというのは、現在の「ウクライナが悪い、ウクライナのネオナチがー」というロシアによるウクライナ侵攻のスタート地点から理屈を間違えてるのを思い起こさせる。

 

会議に出席している15人が、ああいう雰囲気を作るに至ったその過程も、どうだったんだろうなあと考える。元兵士で会議出席時は首相官房局長という肩書の人は、唯一「倫理」に触れた。自分が兵士だった時に見たりやったりしたことの記憶があるからだろう。しかし結局その倫理も、ドイツ人の若者の精神的負担を心配するにとどまる。直接銃殺するよりはガスの方が効率もいいし実行者の精神的負担も少ないのでいいだろうということで会議は意見が一致して終了する。

 

この会議では1100万人が”最終的解決”の対象とされ、その後600万人が殺された。

 

「正しい」とされることに無批判に従う怖さ。疑問を持ったりせずに従ってる方がその場は楽なんだろう。少数派になるというのは大きなエネルギーを必要とする態度だし、ナチス政権下では命の危険もあったかもしれない。「こんなこと言ったら酷い目に合うかも…」と躊躇する社会になったら、それはもう、既に手遅れなんだろう。

 

一度立派な肩書や権力を持ったら、それを維持し、持っている力を顕示したい、という欲求に倫理や正義は負けるんだろうな。絶望的。

 

それにしても毎度のことながら自国の負の歴史をこれでもかと映画にしていくドイツに尊敬の念ですよ。日本軍にも同等のことがあったよね?なかったわけないよね?被害者視点でしか過去の戦争を描けない、加害の事実に向き合う作品が作られない・作れない日本というのは、情けないというか幼稚というか、過去を直視できない限りはいつかまたやるでしょうねとしか。

心配だよ本当に。

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