アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

Chemins Croisés 本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語

久しぶりの写美へ。

 

本橋成一ロベール・ドアノー
交差する物語
2023.6.16(金)—9.24(日)

topmuseum.jp

 

「写真は観る者に想像力を与える」

切り取られた一瞬を見て、その中、その外のあれこれを想像する。どんな場面なのか、何を思っているのか、今この場所やこの人はどうしているだろう、みたいに世界が広がる。

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本橋とドアノー、並べてみるとなるほど共通点を感じる。ドアノーの次女のフランシーヌさんが本橋の写真には木村伊兵衛とアンリカルティエブレッソン、そしてドアノーらが結んできた日仏写真家のamitiéの延長線上にある。当時の彼らの写真にあったamitiéを感じる、といったことを話していた。とてもわかる気がした。2人が同じテーマで撮った写真、例えば炭鉱や市場で生きる人々の写真などに特に感じる。

 

ドアノーのパリの写真は、なんだか郷愁にかられることがある。その時代のパリを知らないのに、胸をぎゅっと掴まれるような気がする写真があるフシギ。好きだからでしょうか。(笑)

 

本橋の写真はドアノーと並んでなんの違和感もない。原発事故後のベラルーシの写真は、今のウクライナ戦争ともなんだか重なる気がして、もっと見たい。ごく普通の人々の、ごく普通の日常生活。当たり前にあったものが、ずっと当たり前とは限らない。

 

しかし写真家というのは、見知らぬ土地に行き、言葉がわからなくてもその土地の人々と交流して、その人々に寄り添い、彼らを尊重してこそいい写真が撮れるのだな。見る者に想像力を与えるような。ドアノーも本橋も、そこ。

 

バレエ公演から写真展へ。動から静へ。

写真もいいよねー。

 

こちらの動画は会場でも流れていたもの。ドアノーの娘さん二人のお話よかった。

youtu.be

 

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ウクライナ国立バレエ「Thanks Gala 2023」

www.koransha.com

 

ウクライナ支援の気持ちはもちろんだけど、アッツォーニ/リアブコの「シルヴィア」が観たかった。ハンブルク来日公演では踊らなかったこの2人の「シルヴィア」見逃せない。

 

ゲストダンサーにインタビュー!vol.1 アレクサンドル・リアブコ

 

ハンブルク来日公演の時に全幕で観ているから、3幕のあの場面の持つ意味がより味わい深い。そして若手ではなく、来日公演では叶わなかったアッツォーニとリアブコというこの二人が踊る意味が深い。この二人を観ると、精神の美しさとか、魂の結びつきとか、普段の私だったら思いつかない思いが湧いてくる。観ているこっちの心が洗われるんだよな…。尊い。彼らの踊りを生で観られる機会があとどれくらいあるだろう。大切にしたい。

 

第二部「森の詩」はなんとも雰囲気があってよかった。私はウクライナに行ったことないんだけど、とてもウクライナらしい作品なのではないか。コールドもきれい。

 

マトヴィエンコ夫妻のは、私には暴力的に見えてしまった。振付ゆえなのかもしれないが、デニス・マトヴィエンコの立ち振る舞い、雰囲気がなんか乱暴に見えて。

 

最後の「ファイブ・タンゴ」はちょっと長かった。来日しているダンサーがほぼ出ているのかな?14人による、淡々と”踊り”を見せる作品。

 

この1か月ほどで、ロイヤル来日公演の『ロミオとジュリエット』、パリオペラ座の「オペラ座ガラ」と「ル・グラン・ガラ」を観ているので、ウクライナ国立の踊りはほんと”踊り”である。ある意味正統派というか、飾りは不要です、といった感じ。

 

バレエといっても様々なものがあり、様々なカンパニーがある。世界は広い。そしてウクライナのバレエ団が置かれている状況、団員らの家族や友人らのこととか、今彼らは舞台上でどんな気持ちで踊っているのだろうと考えずにはいられない。

 

昨年12月に『ドン・キホーテ』を観ていて、あの時も主役やソリストのプロ意識を感じたけども、今回もそうだったなー。なんというか、プライドを感じるというか。どんな状況、環境でもプロの舞台を見せます、というような。

 

早く戦争が終わってほしい。彼らが思い切り踊れる生活を取り戻せますように。

 

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ル・グラン・ガラ2023〈Bプロ〉

Bプロ、まさかのガラで泣きました。

le-grand-gala.com

 

8/2にAプロBプロをマチソワだったので、体力大丈夫かな(私の)と思ってたけど、今回良席だったこともあってストレスなく集中して観られた。

 

レオノールとトマ・ドキールの『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』。これは先週のオペラ座ガラではハナさんとジェルマンが踊ったやつ。私はレオノールのフレンチ風味が好きで、ハナさんのはバタバタしてたように感じたけど、どうでしょう。レオノールは、彼女の売りではないにしても”テクニックの見せ場”が危ういことがあるので(そこ突っ込まれるので)そこは今後に期待。トマにジェルマンみたいなキラキラはないけど、Aプロよりよかったと思う。脚きれい大事。

 

さてここから、怒涛の濃厚プログラムが。

 

『マノン』出会いのPDDをドロテとユーゴ。ユーゴのソロから入るのでなかなかの見応え。しかし真の感動はリュドミラとフォーゲルによる寝室のPDD。これは素晴らしかった!なんだろうこの、理屈抜きに心打ちぬかれるみたいなのは。泣いた。心震えずにはいられない素晴らしいパフォーマンスだった。リュドミラのマノン、大人の魅力と知性と強さがあって、踊りは軽々と正確でありつつ感情があって、なんかもう不満の余地がない。フォーゲルのデグリューの妖しい美しさもリュドミラマノンとバランスがよかったんだと思う。ベテランの凄さよ!フォーゲル、毎度違うパートナーと組んでいるのに毎度見事なパートナーシップなんだよね。素晴らしすぎる。

 

会場がめちゃくちゃ盛り上がった後のフォーサイス『イン・ザ・ミドル』ビアンカとオドリック。無機質でピリッとした作品、こちらの方がビアンカはよかったかな。フォーサイスなら『Blake works』でもパリオペの魅力が出るじゃないかと思うが色々事情があるんだろう。

 

そして前半のトリ、『オネーギン』手紙のPDDをアマンディーヌとマチュー。もうねえ、これは、全幕を観た気持ちになったよ。我ながらびっくりした。今の彼らのオネーギン、しかも年齢を重ねたオネーギンを今のマチューが選んで演じる意味と価値。泣いた。長年オペラ座を背負ってきたマチューの、今の姿。現在到達している地点。残り少なくなったマチューの現役の姿をしかと記憶に残さなくては。

 

なんて濃いんだよBプロ!

となったところで休憩挟んで若手の『パリの炎』、なぜ今これを見せられているのかと考えてしまった。

 

ビアンカとトマでマクミランの『コンチェルト』、この二人はこれが一番よかった!

 

ジル・イゾアールがリュドミラとマチューのために振り付けた『ヴィヴァルディ・パ・ド・ドゥ』。これみよがしなところが全くないのに、目が離せない。何よりこの二人の現在が素晴らしいので、その素晴らしさを称えるために振り付けたんだろうなと感じる。シンクロすると美が二乗。ああ。こういう日本初演はうれしいよね。

 

レオノールとフォーゲルでゲッケの『悪夢』。こういう作品に挑戦するのが新世代エトワールだよなと思う。個人的にはゲッケの作品てあまり好みではないのだけど、コンテも踊るから古典にも活きるというのがあると思うし、現代に求められているのはそういうダンサー。レオノールの白鳥を観て感じたことだけど、彼女はきっと新しいヌレエフを踊っていくと思うな。

 

公演プログラムにアマンディーヌが、今回一番楽しみにしているのがオドリックと踊る『椿姫』、きっと彼と踊る最後の椿姫になるからと書いており、それを読んでたからなんかもう最初からうるうるしそうだった。オドリックはエトワールにはならなかったけど、パートナーとしてはそういうの関係ないんだろうな。来日公演では主役に配役されることはないだろうから、今回オドリックのアルマンを観られて本当によかったな。きっとマチューの計らいもあったことだろう。

 

最後は『マイヤリング』をドロテとユーゴで。パリオペのレパートリーに入ったばかりの作品を入れてくれたのはうれしい。しかしこのペアで感動できない私としては、なんとも複雑な気持ちになったのであった。違うパートナーと踊らなくていいの?何か可能性を狭めてない?みたいな余計なお世話まで浮かんでしまった。ドロテの引退まで、これを継続するんだろうか。なんか心配。

 

というわけで、全体として見ると満足して帰宅。先週のオペラ座ガラとは濃度があまりに違い、先週は先週で満足してたはずなのになんだったんだ!?という気もする。(笑)

 

オペラ座だけが持つ魅力を感じさせたオペラ座ガラと、ベテランエトワールの魅力と実力がさく裂したル・グラン・ガラ。パリオペのベテランエトワールたちから放たれるオーラ、最高。

こういう全く違うコンセプトを持ったガラを続けて2つ4プログラム観られたというのは、改善してほしいところもあるけども、それはそれで貴重であった。

 

ああー、おわっちゃったーー。

 

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ル・グラン・ガラ2023〈Aプロ〉

2つに分けずに一緒にやればいいのにと思ってきたが、いざ観ると、それぞれのガラのコンセプトがこれだけ違うのだから別だよね、ってなった。(先週のオペラ座ガラとのこと)

le-grand-gala.com

 

このガラはペッシュ座長のエトワール・ガラの流れを汲んでいると思うのだけど、なんといってもベテランエトワールたち(フォーゲルとオドリック含む)の見事さよなあ。ダンサーの存在そのものが宝物。

 

レオノールとマチューのウヴェ・ショルツ『ソナタ』なんて美しい。並んで歩く、その揃った脚の一歩がすでに尊い。この2人のコンテ以前も見てるけどいいよね。ベテランマチューの美の極みと、フレンチスタイルで揃うレオノール。美美。

 

アマンディーヌとフォーゲルの『オネーギン』鏡のPDDは演目変更で入って楽しみにしてたやつ!フォーゲル鉄板のオネーギン、怪しげな美しさと見事な身体能力、サポート。アマンディーヌとの組み合わせは互いの身体能力が活かされてとても良かった。やっぱりアマンディーヌ好き。

 

リュドミラとオドリックの『カルメン』はリュドミラの脚に視線釘付け。バレエとはこういう脚を持っている人のためよね!とか思いながら。オドリックの濃さとリュドミラの脚の強さ美しさで満足。リュドミラのことが改めて好きになった。

 

ドロテとユーゴの『ル・パルク』、これは、人気のPDDですけれども、今回私は全く乗れなかった。ドロテとユーゴは当人たちが好きで組んでいるのでそこに口を挟む余地はないのだけど、あまり感動したことがない。なぜなんだろうと毎度考える。今日のルパルクも、なんだろうな、見え方の意識というか、作品への陶酔とは違うものを感じる。難しいよね、客観性を失うほど役に没頭するのもダメだし、役や作品そっちのけで自らの美しさのみを追求するのもダメだし。

これを踊れるダンサーが他に何人も参加しているだけに、他の組み合わせに思いを馳せてしまった。

 

アマンディーヌとオドリックで『白鳥の湖』二幕、これを観るとオペラ座のエトワールたるものやはりこういうのを見せてくれないと!という気持ちになる。私がアマンディーヌのことを好きだからというのもあるけど、実力と経験を兼ね備えてオペラ座の名を背負ってきたエトワールの力だと思う。オドリックはエトワール枠でいいです。

 

レオノールとフォーゲル『3つのグノシエンヌ』、フォーゲルはパリオペ組との相性がいいようで全く違和感なくエトワールたちと組んでいる。身長があってサポートに不安が全然ないのが観ていても安心感あるし、それは一緒に踊る側からしてもきっとそうなんだろう。そしてフォーゲル全然年齢を感じさせないんだけど何食べてるんだろう。(笑)

 

リュドミラとマチューの『ダイヤモンド』はもうね!エトワールとは!こういうものです!という体現。宝石が2人。今回本当にリュドミラが素敵で、彼女も引退までそれほど残っていないと思うのだけど、来年の来日公演にはぜひともぜひともリュドミラも来てほしいと切に願う。

 

ラコットへのオマージュとして『赤と黒』寝室のPDDをドロテとユーゴ。パリでの初演時も評判はイマイチだったように記憶しているけど、このPDDも、そうねえ、オネーギンや椿姫のように踊り継がれていくかどうか。どうでしょう。

 

さて若手。『海賊』『サタネラ』をビアンカ・スクダモアとトマ・ドキール。トマの脚のきれいさはよかった!派手ではないが大事。演目のせいかもしれないけど、期待の若手感はあんまりなかったかなあ。トマにはもうちょっと個性を出せる演目をあげてほしかった。

クララ・ムーセーニュと二コラ・ディ・ヴィコはまだ本当に若く、というか若干生徒感があり、『ドンキ』のGPDDのようなテクニックで盛り上げるものしかまだ踊りようがなさそうである。

この二組以外とエトワール勢との落差がちょっと大きすぎるように感じた。”期待の若手”枠はあってほしいけど、例えばかつてのジェルマンやユーゴがスジェの時に参加したような、おおっ!っていう発見とはならなかったかなー。

でもまあ、今後を見守ろう。(何様だ)

 

Bプロにつづく。

 

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オペラ座ガラ〈Bプロ〉

www.nbs.or.jp

 

今回のこの、フロランス・クレールが指導するオペラ座のダンサーたちが集う『オペラ座ガラ』という形式、とても良かった面と、改善を望む面と、はっきり表れた気がする。

 

まずとても良かったのが、エトワールらソリストだけではないからこその、オペラ座の雰囲気が伝わる構成。

Bプロで言うなら「ナポリ」のパ・ド・シス。普段コール・ド・バレエとして踊っているダンサーたち6人によるものだが、それぞれにソロがあり個性を出せる場面もありつつ、群舞として彼らが揃ったときのあのなんとも芳醇な空気というかなんというか、これは他では絶対に出せないね、という雰囲気が立ち昇る。たまらん。フロランスがこれをダンサーたちのために、そしてオペラ座を求めて観に来る観客のために選んだのだなと、よくわかる演目だった。

 

Bプロの最初はパクさんとポールマルクの「ゼンツァーノの花祭り」で、続く「ナポリ」と2作品ブルノンヴィル。ヌレエフじゃないのか?となりそうなところだけど、このいかにもクラシカルなブルノンヴィルって、足先が美しくないと見たくない。というか、美しい足先があってこそだと思う。であるからして、パリオペには向いている。彼らの繊細で美しい足さばきが映える。派手さはないのでマニア向け寄りかもしれないけど、私はとっても堪能した。この2人なら安心してうっとりできる。

 

最初の2作品の牧歌的なセットからいきなりすっきりなんにもないステージで、ハナさんとジェルマンの「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」。ブルノンヴィルからバランシンへ、時代の差が凄いね。そしてこの男性ソロでこんなに優美なの初めてみた!あまりに優美でびっくりしたよジェルマン。本当に美しいな君は。パリオペラ座のエトワールが踊るとこのヴァリエーションもこうなります、という魅力と説得力。たまらん。

 

休憩を挟んでの「さすらう若者の歌」、アントワーヌ・キルシェールがとても良かった。アントワーヌをソロで観たのは今回が初めてだったので、これは今回の発見であった。ラインが美しく、踊りに情緒があって。まだ若いダンサーでプルミエになって間もないけど、今後どんな役を踊っていくのか楽しみになった。マルク・モローとのペアは、兄と弟のような、父と子のような、対比が大きくて飽きなかった。でもこれ、組み合わせで全然違って見えるはずで、他のペアも見たくなる。

なんと私はこの作品、イレールのアデュー公演でルグリと踊ったのをパリで観たのだ。今の私で当時の2人をもう一度観たい。。当時の私には豚に真珠だった。。

 

Bプロ7/29ソワレでマチアスが踊ったのは  「コム・オン・レスピール」のみ。もうねえ、マチアス不足でどうにかなりそうでした!!!とても美しい作品で、プログラムによるとフロランスが初演時に踊った作品だそうだから、特別であり彼女がダンサーに託した思いもあるのだろうが、マチアスが唯一踊ったのがこれとなると、不満が残ってしまう。もっとマチアスが観たいの。マチアスのためにチケット取ったの。と、言いたくなる。そしてなぜこのペアだったんだろう。

そもそもライモンダがダブルキャストだって知らなかったんだよ…マチネはマチアスで、ソワレはジェルマンだったのね。でもさ、もしマチネを選んでたら今度はジェルマン不足になってたでしょう?どうしたらいいのよ…。(解:マチソワ)

 

そしてプルミエールのブルエン・バティストーニがポールマルクと組んでの「くるみ」、あのPDDは鬼門と言ってもいい難易度よね。2人ともフレンチスタイルでヌレエフを踊っているから揃っててきれい。ブルエンはちょっと硬く見えたけど、これから経験を積んでいくんだろう。ポールマルクは本当に安定していて美しく、なんでもできちゃうのにやりすぎない上品さをキープしているのが素晴らしい。そうなんだよ、パリオペラ座のエトワールですからね。

 

最後の「ライモンダ」はコールドはAプロと同じで主役がハナさんとジェルマン。ジェルマンの見せ方はポールマルクとはまた違っていてなるほどそういう見せ方!となった。自分の美しさを活かす、もしかしたら疲れなどあるのかもしれないけど(猛暑だしね)、その中でも絶対に美しさは失わない、そういう安定感と貫禄があったように思う。ジェルマンにはきっちりフレンチスタイルで踊るパートナーがいいと思うのだけど、ハナさんとジェルマンだと踊りのタイプがあまりに違っていて合うようには私には見えないのだ。

でもまあ個人的な仲の良さがパートナーシップにはプラスに働くのだろうし、本人たちが楽しんで踊ることも大事ではあるよね。ガラだし。(と必死に正当化の理由を考える)

 

で、最初に書いた、この形式のガラの改善を望む面、それはズバリ、「もっと踊って!!」である。

人数やダンサーの構成による制限があるのはわかる。わかるけども、エトワールには2つずつは踊ってほしいし、今日はアクセルは最後のライモンダのコールドしか出番がない。それはさすがに寂しいじゃないか。スジェだからってファンがいないわけじゃないんだし。せっかくこの規模のグループで来たんだから、見せ場ほしいよね。Bプロ1回のみの私は結局マチアスはAプロの「ダンス組曲」と「コム・オン・レスピール」でしか観られなかった。マチアス不足は否めない。

 

あと、やっぱりパリオペでしか観られないフレンチスタイルの踊りを追求して欲しいし、見せる側もそれを自分たちの売りだと主張して欲しい。(ハナさんが日本で人気があるのはわかるけども、来日公演でハナさん推しで来られたらどうしよう)

 

コールドの存在によって際立った”オペラ座らしさ”と、個々のダンサーの魅力を発揮できる演目と、その両立を望むのは贅沢だろうか?

とてもいい企画だと感じたので、ぜひ練って再演してほしい。

 

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オペラ座ガラ〈Aプロ〉

www.nbs.or.jp

 

公演が集中するこの夏。パリオペラ座のダンサーたちのガラも2つ。

まずは『オペラ座ガラ』と銘打ったこちらから。

 

よくあるガラと違い、いろんなPDDを次々に並べるのではない。眠りの花のワルツで始まり、オペラ座のダンサーたちが舞台上に何人も踊ると、ああそうだよこれがパリオペだよね!!と物凄い説得力があった。ちょっとびっくりするほどに。

 

あらためて、パリオペをパリオペたらしめているのはエトワールの存在だけではなく、それを囲むダンサーたちが醸し出すものにもあるのだと感じる。フランスらしさ満載のコールドバレエ、これぞカンパニーの雰囲気と魅力を形作る。

 

コールドとは言ってもスジェ以上のダンサーたちの集まりだから、彼らが持ち寄る個性が集まると”パリオペ”になるんだよなあ。納得と感心。

 

さて、このようにこのガラの意図については納得なんだけども、中身についてはもう少し演目が欲しかった。カーテンコールでジェルマン出てきて、「あ、そうだよジェルマンいたよ」ってなったし、マチアスもポールマルクも1演目しか踊っていない。もっと見たいよねえ。

 

パクさんとジェルマンの眠り。いやあ、フレンチスタイル美しいわあ。パクさんの美しい脚、麗しい王子ジェルマン。あの衣装は人を選ぶ(笑)。そしてつくづくパリオペは男子のレベルが高い。持って生まれたもの、素質を見抜き、育てる側の人材や仕組みのおかげなんだろうか。それにしても見事な逸材であり、才能である。いくらでも見ていられる。

 

そしてパリオペ男子の魅力がさく裂する『オーニス』これいいよねえ。学校の生徒時代から踊っているだろうから、その時の自分、今の自分らしさ、みたいなものが出せる作品なんじゃなかろうか。生徒や若手が踊るのも、アコーディオンのおじさんたちとの対比がかわいくて微笑ましいし(今回は音楽は録音)、中堅、ベテランとそれぞれに味わいがあって魅力的。好き。

 

マチアスの『ダンス組曲』は最後の瞬間にぶわっと涙が出た。なんだろほんとに。マチアス来てくれてありがとう。戻ってきてくれてありがとう。『薔薇の精』から変更になったのは今のマチアスが踊りたいと思ったのがこれだったということなのかな。余計なものがそぎ落とされ、踊る楽しみを再発見したかのような、自然体のマチアス、というように見えた。マチアスが踊ると音楽そのものになっているかのように感じるのだけど、生演奏のチェリストと共演だとそれがさらに増す。

 

その余韻にもっと浸っていたかったのに!とちょっと思ってしまった白鳥三幕。ロットバルトありのバージョンなのはとてもいい選択。いつだったか、レオノール/ジェルマン/アリュの予定がアリュが来なくて、2人バージョンになったことがあったよね。本来の形はこれですっていうのが今回はちゃんと実現。しかし踊りの好みでいうと、私にはあまりヌレエフっぽく見えなかった。脳内には過去に観た踊りがまだ残っているのでどうしても比べてしまうのかな。まあ、好みかな。

 

最後は『ライモンダ』三幕。これもコールドがいることでパリオペらしさ増し。全幕の上演があまりない作品だと思うのだが、男子4人で踊るパートや、女子3人のパートが、とてもパリオペらしくてよかったなあ。今回ほんとエトワール以外のダンサーたちを何人も連れてきてくれてよかった。パクさんとポールマルクの組み合わせが今後全幕でぜひ見たい。ポールマルクはテクニック盤石なのに決してやり過ぎず上品なのがとてもパリらしくて好印象。なんというエレガンス。

 

というわけでやっぱり演目としては若干の物足りなさはありつつも、オペラ座ガラという名前を付けたその意図には大納得であった。

 

Bプロと、来年2月の来日公演が楽しみ。

 

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Houria(裸足になって)

gaga.ne.jp

 

リナ・クードリの主演映画、結構観ているな。『パピチャ』と同じ監督、同じ俳優なんだね。なるほど。

 

アルジェリアが舞台。フランス語とアラビア語が混ざる現地の文化、環境、社会を垣間見る。

 

バレエダンサーであるフーリアが奪われたバレエを踊る脚と声。人生とはなんと過酷なことか。フーリアの身体的な傷は、精神の傷とは関係なく、癒えていく。しかし、本当に辛いのは様々な過去や記憶を背負ったまま生きていくことだと思う。

 

イスラム社会での女性の地位、ダンサーという職業に対する警察官の態度、テロの記憶がまだ遠くない社会。暴力や汚職が蔓延し、そんな社会からの圧力を感じながら生きる女性たち。それらから逃れるためにやむを得ず選ぶ違法な手段。

 

フーリアがリハビリ施設で知り合い、共に踊るようになる女性たちもそれぞれに辛い過去がある。その傷の深さを思う時、私は絶対に傷つけた側(傍観者を含む)ではなく、傷ついた人の側に立ちたいと強く思った。女性同士の連帯であり、痛みがわかる者同士の連帯。そちらの側にいたい。

 

警察を味方につけた暴力への対抗が難しいこと。そして暴力に屈することの心の痛み。そして屈した自分を許せない痛みというのもある。

 

連帯することの力の大きさを痛感する。

 

フーリアはダンサーだから、言葉を失っても自分を表現する手段があった。これこそがフーリアの癒しであり、生きていく力だよね。そしてその力が、まわりの人たちをも癒す。

新しい何かを始めること、楽しむこと、それを共有できる人がいること。それらの効果は本当に強い。

人生は過酷だが、力づけてくれる人や事も存在している。

 

私は女性なので、こういった作品では加害され軽んじられる側に思い入れながら観るけども、普段の生活で強者の側に立っていてそれがあまりに当たり前で考えもしないような人は、フーリアたちをどのように感じるんだろうか。自分事として想像できるだろうか。

 

アラビア語とフランス語が混ざるのもそうだし、地中海を渡るボートに乗る不法移民のことも、そういった社会背景をふまえて、問題をさらす作品。

 

Houriaは「自由」という意味のようだ。象徴的。

Mission impossible : Dead Reckoning Part One(ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE)

タイトル長い。(笑)

missionimpossible.jp

 

先日のインディ・ジョーンズに続きIMAXで観たよー。

そしてトム・クルーズも、60代なんだよねえ。あんな見事なフォームで走れるの凄いわーなどと思いながら見た。やっぱり努力してるんだと思う。ただ有名なだけではなくて。

 

どこまでが生身の人間が演じているのか、俳優たち本人なのかスタント俳優なのか、どこまでが実写でどこから作られた映像なのか、それらの境界は必ず存在していてそれはみんな知っているんだけど、線引きは難しいね。素人目には。そういうこと気にせず楽しむのがよいんだろう。

 

”映画”とひとくくりにしてもその作られ方には相当な幅があり、私が普段見ているような映画とは別ジャンルとも言える。娯楽であり、時世を反映させ、観る者になんらか考えさせる、その点ではさすがよくできてる。

あのフランス語を話す女性のキャラクター設定にはちょっと違和感あったけども。一時的にだけどメイクも謎だったし。

 

2時間40分くらいあったようだが長さを感じず楽しめた。

たまにはいいよねこういう娯楽大作。

続きが気になるので早めにPart Two公開お願い。

Noism0/Noism1「領域」

noism.jp

 

2023.7.14(金)19:00 めぐろパーシモンホール

東京初日観てきた。

 

『Silentium』演出振付:金森穣

『Floating Field』演出振付:二見一幸

 

今回のダブルビルよかった。好みの系統。

 

金森さんの『Silentium』は大人な二人による芸術の高み、という趣。これはやはり誰でも踊れるといった類のものではなく、彼らだから、今の彼らだからこそなのだろう、というのが伝わってくる。もはや生き様。神事というか生贄というか、人の力の及ばない何かによって存在させられているかのような。なんか、そういう気がしてくる。

一方で、ダンスの衣装としてはあれどうなんだろう。おそらく服として見たら見事なのだろう。しかしダンサーの身体のラインというのはそれも大事なので(観る側の私としては)、その辺がちょっと微妙かな…。でも本人たちが納得しての衣装なのだろうからな…。

 

二見さんの作品は過去に観たことがあったかどうか記憶にないのだが、好きな系統な作品で気に入った。序盤は若いダンサーたちが時に幼すぎるように見え、”学生さん”のようだ…などと思ったりしていたのだが徐々に引き込まれた。白い長いリノ(?)の使い方が視覚的効果あり。

ちょっとバットシェバ味やパイト味を感じたりもしつつ、後半の群舞は若いダンサーたちにとってあれは踊ってて気持ちよいのではないか、気持ちよさそう、と観ていて感じた次第。と同時に、Noismダンサー以外が踊ったらどうなるだろう、それも見てみたい、とも思った。

 

ダンサーにとって身体条件というのはそれなりに重要だと思うし、手足の長さが空間把握、空間支配に与える影響は大きい。もちろん身体の使い方次第で小柄でも踊りが大きく見えることはあるのだから、身体条件がすべてではないことは言うまでもない。

ないのだが、より空間支配力であったりオーラであったり立体感がある集団が踊ったら、この作品はどうなるだろうという興味はある。

 

男性ダンサー募集のチラシが入ってたが、金森さんも渇望しているんじゃないかなあ。日本人男性ダンサー、なかなか、ね。金森さんに恐れをなして近寄れないのかしら。(笑)

 

今日は舞台上よりも客席に見覚えのある顔が多かったような。

そして毎度のことながらNoismの観客はおしゃれさん多いね。

 

Ténor(テノール!人生はハーモニー)

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パリ郊外に住むオペラとは無縁の生活をしていた若者アントワーヌが、たまたまバイトのデリバリーで訪れたオペラ・ガルニエで歌の才能を見出される。こてこてにベタなストーリーなんだけど、フランスそしてパリと郊外の現実をベースにいろんな要素が盛り込まれている。

 

特に、最近起きた、警官が17歳の少年を射殺した事件をきっかけとした大規模なデモと、それに便乗した暴動。その背景になっているバンリューの日常がベースとして描かれていて、あの事件を思い出さずにはいられない。

 

出だしから示唆的。ラップの歌詞を考えていただけなのに、警官らに犯罪を疑われる。それがバンリューに生きる若者の日常で、警察・警官との関係性というのが、現実を思い出させる。

 

自分の居場所はどこなのか。さまようアントワーヌと、彼を導く人との出会い。理解者の存在の大切さ。そして理屈抜きに、前提知識なしに誰もの心を震わせる音楽の力。

 

そんなにうまくいくかよ~、みたいな野暮なことは言うまい。こういう映画も必要なのだ。

 

しかし実際にフランス社会の中で厳しい環境に置かれている若者たちはこの映画を観ただろうか、ということもちょっと考えてしまう。私はこれを観て感動しちゃったりするのだけども。例えばラジ・リ監督の『レ・ミゼラブル』(2019)のような容赦ない描き方。あれはショックだったが、昨今の暴動などをみると単なる作り話では済まない。あれこそ彼らのストーリー、という気もする。

 

だけど本作で描かれたような話が、夢物語でなくありえる話だと信じたい気持ちもある。

 

例えば『パリに見いだされたピアニスト』『オートクチュール』もちょっと似た感じだと思うのだけど、わかってるけど、ベタだけど、それでも創る、というのがフランスの映画界の意識なのかな。

 

スシだのマキだのジャポンだのいっぱい”日本語”も出てくる。笑えるところもたくさんあって、単純ながらうまくできてて楽しめる映画と思った。

 

 

現実のオペラ座の世界においても、ジャンルを超え、また社会的違いを超え、若者や新たな観客を招き入れようというオペラ座において取り組みがされている。例えば、ドキュメンタリー映画にもなったこれ。ストリートのダンサーたちがオペラの世界でともに作品を作り上げていく、その過程。彼らの言葉にぐっときた。

Indes Galantes(優雅なインドの国々 バロック meets ストリートダンス) - アートなしには生きられない