アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

スパイの妻

日本人俳優による日本語の映画になると受け止め方が変わる可能性があるのかなあ、などと考えたり。近すぎて受け取るものが多すぎるのか、日本社会についてあまりに様々な”あれこれ”があるためか。

 

『スパイの妻<劇場版>』公式

 

1940年の神戸が舞台。太平洋戦争へと向かう空気が充満する中、その空気に抵抗なく”乗れる”人と”乗れない”人がいる。

その中で、巨大な不正義を知った時にそれらを正すために行動できるか。あの世間の空気に抗うことができるか。

戦争を直に知った優作に対して、あくまで間接的な聡子というのは、あの戦争を直接知らない現代日本人みたいなものでもある。間接的であるが故の暴走というのもあるだろうし。

 

乗れる乗れないで言うと、私はこの映画に最後まで乗れなかった気がする。常にどこか違和感がある。それは監督によるわざとなのかもしれないけど。

 

時代背景から夫婦の関係性というのは現代とは全然違うし、話し方も違うし、それらに文句を言いたいのではないのだけど、居心地は悪い。

 

あとこれも意図的なんだろうけど、そこそんなに軽い感じ??という違和感が聡子にはある。世間知らずというか、現実味がないというか。そして最後の場面も意図がよくわからなかった。時代が違うとはいえ、人物像にリアリティが感じられずいかにも作られたキャラクター、というように見えてしまった。

 

そんな風に思うのも私が日本人で日本語話者で日本社会についての予備知識も(他の国に比べて)あり、”リアル”へのハードルが高いのかもしれないけど。外国作品なら気にならない細かいところが気になってしまうという可能性はあるので。

 

映画のテーマのようなものは別のところにあるんだろうけど、メインに集中するためには「余計なことが気にならない」ことも大事なんだよな。バレエなどでもそうなんだけど。

 

例えばこれを英語吹替で見たらどう感じるだろう?少し距離をおくことでまた違う見方になるかもしれない。言語による距離感。

そんなことも考えた久しぶりの日本映画。

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