アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

東京バレエ団「かぐや姫」

ついに全幕での初演。観てきた。

www.nbs.or.jp

 

私は全幕ものになってから観たいと思ってたので、待ってました、「かぐや姫」全幕世界初演。土曜日のBキャストで観た。

いやー、洗練されていた。金森さんさすがである。衣装も舞台装置も好み。

 

日本が舞台の作品で”和”を意識したものって、どうしても着物風衣装とバレエの動きって相性が悪いよなあと思っていたのだが、解決。現代に制作される新たな作品としてはこういう風になるのが正解な気がした。

そして”黒子”の登場というのが、日本の伝統芸能風味をプラスしていて、本来の黒子の働き以上に振付として面白味があった。

 

外国人の視点で描かれる”日本”というのは、日本人からすると違和感あることが多いもので、そして日本人が外国人目線を意識して作った場合にも、外国人は日本をこう見てるんでしょ?という方向に無用に寄っていたりして、微妙な気持ちになることがあるものだけど、金森作品というのは、現代日本人の洗練であり、対抗みたいなものもあるように見え、唸る。

 

かぐや姫」の元々の話ってどんなのだっけ??となったのだけど、金森版「かぐや姫」は観る側に委ねられた余白が多く取られているように感じられた。余白がなくて、解釈の余地がない作品はつまらない。一度見て終わってしまう。あいまいであったり、よくわからないところがあったり、はっきりしないからこそ長く上演される可能性が生まれる。というように感じた。

 

一方で、演じるダンサーたちについては若干の物足りなさを感じた。まだ演じて日が浅いし、ダンサーそれぞれにとって役の解釈はまだ深まる余地がありそう。

そしてアフタートークで金森さんも言っていたが、日本のダンサーは先生の言う通りにやるというのが身体に染み込んでいる傾向があり、プロであってもそこからなかなか抜け出せない。もっと個を出したり、枠をはみ出したり、挑戦したりという幅をもっと取っていい気がする。もっとはみ出してほしい。(と勝手なことを言う)

 

そして女性ダンサーの群舞は、みんな美しい身体なのは前提として、とても細く薄く華奢に見えて、舞台上で作品にエネルギーを与えるパワーという面では足りないのかなあとも感じた。単純な身長の問題ではなくて、身体の厚みや筋肉が生み出す熱量みたいな、そういうのが集団(群舞)になると総量として少なく感じる。個々のダンサーはみなさん美しいと思うのだけど。少しずつの軽さが集団になると結構な総量の差になるというか。

まあ好みの問題ではあるけども。

 

音楽は全編ドビュッシー。膨大な数の既存の音楽の中から作品のストーリー、場面、イメージにあう音楽を見つけ出し、振り付ける、それだけでも既に信じられないほどの労力と才能だと思う。

音源が録音なのでちょっと気になったのが、例えばオーケストラ曲からピアノ曲へとつながった時の音量なのか音質なのか若干違和感があることがあって、生演奏ならきっと自然に聞こえるだろうけど、その辺りはまあ会場にもよるのだろうし仕方なしか。

 

しかし最後のかぐや姫の孤独には胸がぎゅーっとなったなあ。

なぜかぐや姫ひとりが孤独を負わねばならなかったのか。考えちゃうね。

 

再演を重ねてダンサーとしてもカンパニーとしても作品の深みが増していくといいな。