アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

As bestas(理想郷)

この映画、なかなかの余韻である。

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なぜ邦題が『理想郷』とされたのか。その実は(原題も)対極であるのに。そのギャップを狙っているんだろうか。

 

何をどうしたってわかりあえない、残念ながらそういう関係はある。普段自分のまわりにいる人は自分となんらかの共通点を持っている人が大半だけど、でも実際には、なんの共通点も持たない、言葉が通じない(日本語同士であっても)人もいるわけで。

 

アントワーヌとオルガ、フランス人夫婦がスペインの田舎の村に移住し、有機農法で野菜を育て、マルシェで売り生活している。そこは廃れた貧しい村で、隣人は52歳と45歳の兄弟とその母親。

 

この映画では、フランス人とスペイン人、都会から来たよそ者と田舎しか知らない土地の人間、教養と無教養、夫と妻、母と娘、自然やお金への価値観の違い、といった様々な対立が描かれる。”よそ者”アントワーヌへの隣人の仕打ちは見るに堪えない。信じられないほどの愚かさ、野蛮さ。

 

同時に、残酷だよなとも思う。広い世界を知る者と知らない者。選択肢のある者とない者。妻のある者とない者。「俺たちだって女がほしい」という一言にいろんなことが詰まっている。彼らは”野獣”になるしかなかったんだろうか。ならずに済むにはどうしたらよかったんだろうか。

 

オルガの暮らしは見ていてハラハラしたし、娘が滞在していた時にはあの村に若い女性はやばい!逃げて!!と思った。私には無理だわ、あの環境。。

 

男性同士の村コミュニティ内での付き合い、関係性もめちゃくちゃ陰湿で、やはりメンバーが固定され少人数で逃げ場がないというのは地獄だね。自分がああいう村に生まれ育っていたらどうなってしまうんだろう。しかもこの映画、現実に起きた事件を元にしているというから。。(怖)

 

”よそ者”の側も、自分たちが外から持ち込んだ”理想”を追い求めることが、地元の人からどう見えるかという視点も必要なんだろうな。よかれと思ったことが、というのはいかにもありそうな話だし、それが自分の身を危険にさらすかもしれないわけだから。地元民と同じことをしても敵視されるかもしれない。難しいね。。

 

人間にはどうしてもこういう面がある、ということなんだろうか。それが現実だとしても、なんとかできると思いたいものだ…。

 

Mon crime (私がやりました)

フランソワ・オゾン監督、≪Mon crime≫は女性をメインにしたコメディタッチの作品。

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軽妙な台詞が飛び交い、あーオゾンっぽいーという雰囲気。1930年代のフランス、パリとその周辺が舞台で、事件があったのはヌイイの豪邸。建築やインテリア、ファッションもいいよねー。

 

描かれてるのはまだ女性に参政権がなかった時代であり、女性が男性に依存せざるをえなかったり、不当に扱われたり、といった社会背景を踏まえている。なので、作品の雰囲気はコメディっぽいんだけど、含まれているテーマは重くもある。

 

体面を重んじる地位ある男性、偏見や先入観で女性を断罪する権力者、権力をかさに若い女性を好きに操ろうとするプロデューサー、自分の身勝手さに全く無自覚な彼氏、など、現代にもごろごろいそうな男性たち。そしてそれに抵抗し、知性や機転やある種の狡猾さを武器にサバイブする女性たち。少数派だけどまともな男性も出てくるよ。(笑)

 

図らずもユペール様出演作を2本続けてみたわけだが、演じる役柄のふり幅の広さよ!無声映画からトーキーへと時代が移り変わり仕事を失っていったベテラン大女優の役。強烈な個性。

 

フランス映画界は女性の監督も増えたし、俳優と監督の両方をやる人も多い。監督も俳優も、邦画の世界ももっといろんな背景を持つ人がいろんなテーマで作品を作るようになってほしい。なんか毎度同じような予告編見せられてる気がしてね…。

 

しかし、フランスにおいてもいろんな差別や偏見があってそれと戦って来たんだよね。もちろん現在も完璧ではないが、日本とは段階が違うというか、前提が違うというか。でもまあ微力でも戦わねばね。

La Syndicaliste(私はモーリーン・カーニー)

イザベル・ユペール主演≪La Syndicaliste≫、予想とは違った意味で重い内容だった。

 

フランスの原子力企業アレヴァの労組書記長を長く勤め、当時アレヴァのトップだった”アトミック・アンヌ”とも親しかったモーリーン。フランスのお家芸的な原子力産業の大企業、そのCEOが女性なんだなフランスは、と当時は思ったものだった。

 

冒頭で、すでにアンヌの地位は危うい。そしてその後継者と予想されるウルセルとは対立関係にある。アンヌに比べたら「彼は経験不足」と言うモーリーンに「男に能力は要求されない」(うろ覚え)と返すアンヌ。

これ、フランスでの話だけど、まさしく男性の履いてる高い下駄よね。女性の登用にはやたらと性別より能力だのなんだのと言うわりに凡庸な(無能な)男性はいくらでも存在しているという。。。

 

映画全編を通して、女性であるがゆえの”不利益”について取り上げていると思う。被害に遭うことも、被害の中身も、捜査における扱い、裁判での扱い…。モーリーンが男性であったら絶対にこういう展開にはならなかったはず。(本作は実話ベース)

 

≪La Syndicaliste≫という原題から(組合活動家の意味)、企業内で権力と闘う女性の話なのかなと思っていた。でも、モーリーンの権力との戦いは、始めることすらできない。相手はEDF、秘密裏に中国企業との提携を画策しているとの情報を得たモーリーンだけど、それを真面目に取り上げてくれる人、話を聞いてくれる人はなかなか現れず、脅迫電話などの嫌がらせが頻発していく。オランド大統領(当時)との面会が叶おうとしている時、事件が起きる。

実話だと思って見ると耐え難い。そして捜査員の姿勢にも腹が立つ。

 

アレヴァやEDF、政治家や経営者、巨大権力による裏工作などに切り込んでいく作品かと思ってたら、モーリーン自身に降りかかった、個人が背負うにはあまりに重い現実を描いた作品だった。2010年代のフランスにおいても、こんなことがまかり通ろうとしていたとは。

 

酷い話であると同時に、こうやって映画になり、当時の大統領や大臣、大企業トップらが実名で登場し、社会を批判的に描ける点では羨ましくもある。邦画にはないジャンルなのでは。

 

そして犯人は今もわからず、野放しなのだ。闇は深い。

 

日本の公式ページがちゃんと表示されなかったので仏語のwikiでモーリーンのとこ読んだらアイルランド出身家族なのね。それで姓が「カーニー」(映画では仏語読みされてるが)で英語教師なんだね。

 

それにしてもユペール様はほんとすごいな。

なんかこう、こういう女性がいるということ自体に勇気を貰えるレベル。

 

HYPNOTIC(ドミノ)

普段あまり見ないタイプの映画見た。

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事前情報なく見たけど結構おもしろかった。終始何がなんだかよくわからなくて、このシナリオ考えたのすごいなー。そして90分ちょっとなのもよい。話が早い。

 

ネタばれにならないように感想を書くのが難しい映画。書けることがあまりない(笑)。邦画にこういうのは作れないんだろうなあ、みたいなことしか言えぬ。なんだかんだでハリウッドにはオリジナルのエンタメを作る力があるよね。資金の厚み、人材の厚み、なんだろうか。

あとは普段からの社会や世界への興味よね。自分の身の回り以外にどれくらい興味を持ち視野広くいられるか。それなしには、結局作品テーマが小さく身近にまとまってしまうんだと思う。もっと多様なテーマ、幅広い年代・性別の俳優が活躍するような、そうなってほしい。

 

東京バレエ団「かぐや姫」

ついに全幕での初演。観てきた。

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私は全幕ものになってから観たいと思ってたので、待ってました、「かぐや姫」全幕世界初演。土曜日のBキャストで観た。

いやー、洗練されていた。金森さんさすがである。衣装も舞台装置も好み。

 

日本が舞台の作品で”和”を意識したものって、どうしても着物風衣装とバレエの動きって相性が悪いよなあと思っていたのだが、解決。現代に制作される新たな作品としてはこういう風になるのが正解な気がした。

そして”黒子”の登場というのが、日本の伝統芸能風味をプラスしていて、本来の黒子の働き以上に振付として面白味があった。

 

外国人の視点で描かれる”日本”というのは、日本人からすると違和感あることが多いもので、そして日本人が外国人目線を意識して作った場合にも、外国人は日本をこう見てるんでしょ?という方向に無用に寄っていたりして、微妙な気持ちになることがあるものだけど、金森作品というのは、現代日本人の洗練であり、対抗みたいなものもあるように見え、唸る。

 

かぐや姫」の元々の話ってどんなのだっけ??となったのだけど、金森版「かぐや姫」は観る側に委ねられた余白が多く取られているように感じられた。余白がなくて、解釈の余地がない作品はつまらない。一度見て終わってしまう。あいまいであったり、よくわからないところがあったり、はっきりしないからこそ長く上演される可能性が生まれる。というように感じた。

 

一方で、演じるダンサーたちについては若干の物足りなさを感じた。まだ演じて日が浅いし、ダンサーそれぞれにとって役の解釈はまだ深まる余地がありそう。

そしてアフタートークで金森さんも言っていたが、日本のダンサーは先生の言う通りにやるというのが身体に染み込んでいる傾向があり、プロであってもそこからなかなか抜け出せない。もっと個を出したり、枠をはみ出したり、挑戦したりという幅をもっと取っていい気がする。もっとはみ出してほしい。(と勝手なことを言う)

 

そして女性ダンサーの群舞は、みんな美しい身体なのは前提として、とても細く薄く華奢に見えて、舞台上で作品にエネルギーを与えるパワーという面では足りないのかなあとも感じた。単純な身長の問題ではなくて、身体の厚みや筋肉が生み出す熱量みたいな、そういうのが集団(群舞)になると総量として少なく感じる。個々のダンサーはみなさん美しいと思うのだけど。少しずつの軽さが集団になると結構な総量の差になるというか。

まあ好みの問題ではあるけども。

 

音楽は全編ドビュッシー。膨大な数の既存の音楽の中から作品のストーリー、場面、イメージにあう音楽を見つけ出し、振り付ける、それだけでも既に信じられないほどの労力と才能だと思う。

音源が録音なのでちょっと気になったのが、例えばオーケストラ曲からピアノ曲へとつながった時の音量なのか音質なのか若干違和感があることがあって、生演奏ならきっと自然に聞こえるだろうけど、その辺りはまあ会場にもよるのだろうし仕方なしか。

 

しかし最後のかぐや姫の孤独には胸がぎゅーっとなったなあ。

なぜかぐや姫ひとりが孤独を負わねばならなかったのか。考えちゃうね。

 

再演を重ねてダンサーとしてもカンパニーとしても作品の深みが増していくといいな。

The Lost King(ロスト・キング 500年越しの運命)

元気出た。実話に基づくストーリー。

 

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シェイクスピアの影響力というのは物凄いんだな。彼の描いたリチャード三世像が、歴史家や研究者ら専門家たちの”前提”を形作っていたといってもいいのではないか。

権威ある人々に軽んじられながらも自説を信じて行動したフィリッパ。そして定説を覆し、大発見をする。

 

こういうのを見ると、やはり均質性の高い組織や集団ではダメなんだなと痛感する。色々な背景や立場の人々が意見を持ち寄り、誰もがフラットな環境で言ったり聞いたりできる、その大切さ。

だってフィリッパが登場せず、あの人たちだけで歴史を語っていたら、今もリチャード三世はあの駐車場の下に埋もれたままだったんだよ。別の視点を持ち込む大切さよ。

 

それにしても正当に評価されないフィリッパの様子というのは、いかにも日常にある光景であり、これといった肩書を持たない個人(特に女性)は身に覚えがあるはず。

 

「若手にチャンスを与えよう」とフィリッパに言う上司は自分だって若くない。(けど自分の権力を譲る気は当然ない)

名誉ある歴史家や大学組織は無所属のアマチュアの意見を最初から下に見ているしフィリッパの”感”をバカにしている。(「これだから女は」という心の声が駄々洩れ)

 

しかしあの大学はあんな態度でよくもまあって感じだけど、フィリッパがその後女王からMBEを授与されたとあり少し救われた。(当時のフィリッパの苦しさが帳消しになるわけではないだろうが)

 

フィリッパがリチャード三世にどっぷりハマった理由というのは理屈じゃないのかもしれないよね。我々だって、そういうのあるわけで、それが時には人生を変えることもある。幸せだよね、そんな出会いがあるなんて。理屈抜きに、どうしても気になってしまう、どうしても止められない、みたいな。

 

別居してた夫や息子たちが応援してくれてよかったなーー。邪険にされて落ち込んでるフィリッパの支えになってくれて。

 

きっと歴史上、たくさんの”フィリッパ”がいるんだよな。こういう話、もっと知りたい。

En corps (ダンサー イン Paris)

書いてみて気づいたんだけど、邦題、"Paris" だけ"パリ"ではなくParisなんだね。どういう意図なんだろうか。カタカナとアルファベの混ぜ方。

 

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オペラ座の現役プルミエール、マリオン・バルボーが踊るのだからダンスシーンは見応えあり。そしてさすが一流バレエダンサーの身体、鍛え抜かれた脚にほれぼれ。あれがバレエダンサーの脚だよねえ。すばらしい。ダンサーは身体そのものが芸術作品のよう。

 

そして、才能を持って生まれた者というのは、そうではない人々を美しい世界に誘う責務のようなものを負っているのかもしれないなあと思った。エリーズがブルターニュを去る時のあの決意を見て。そのために何年も努力や犠牲を積み重ね、凡人には叶わない美しい特別な世界を作り上げる。

 

もちろん、彼らは踊らずにはいられないし、誰かのために踊ることだけが努力する理由にはならないだろう。でも、舞台に立つというのは、やっぱり選ばれし者だけに許されることだし、その”特権”にエリーズは気づいたのかもしれない。

 

クラピッシュ監督とオペラ座の関わりは最近始まったものではないので、さすがによくわかってるなーという描き方。オペラ座という存在の特別感、そこに所属するダンサーたちの実は一つの怪我で人生が大きく変わってしまうかもしれない脆さ、どんな成功者であっても決して長くはないダンサー人生。完璧を目指し続ける過酷さ。

 

そこにホフェッシュ・シェクターが加わる見事さ。これは凄い。クラシックとコンテの単純な対比ではなくて、人間そのものを表現すること、ありのままの自分でよい、弱くても恐れていてもよい、これは効く。クラシックバレエの世界では理想形がありそれに近いことが条件となるけど、ホフェッシュの世界は違う。我々の大半はこれといって特別な存在ではないけども、それで全然いいのだ。

 

クラピッシュらしい笑いも多々あって全体として楽しい。多くの人が気軽に観られて楽しめるのではないか。ジョジアーヌの深さ、サブリナとロイックのカップルの掛け合いの面白さ。あとサブリナがカメラマンにケンカ売ったのよかったな!!あのカメラマン、サブリナが言いだす前から私もムカついてたんで。Bien fait, Sabrina.

 

冒頭の「ラ・バヤデール」のソロル役はジェルマンで、その後も何度か登場。いいね。ジェルマンが主役の映画もできそうだね!(勝手に期待)

 

ダンサーも振付家も多才だよなあ。踊ることと演じること、振付と演出。マリオンとホフェッシュのインタビューがサイトに載ってた。

 

それにしても”身体”への感覚の違い(日本で感じるものとの違い)というのも、あらためて考えてしまうな。日本以外では(あえて日本以外と言うけども)そこに存在する当たり前のものとして自分の身体も他人の身体も存在している。そこには赤の他人の身体を品評するような目線はないのよ。ほんと羨ましい。ずっと日本だけに暮らしてるとわからない人もいるだろうけど、マジで違うので。

 

作品そのものの深みというよりは、題材としてそこからいろんな面での自分の考えを広げるきっかけになると言う感じかな。

映画1本観て、そこに含まれるさまざまなことに気づいたり、考えたりするの楽しい。

 

 

秀山祭九月大歌舞伎 夜の部

www.kabuki-bito.jp

 

いつ以来だろうか、歌舞伎座。すっかり足が遠のいていた。幕見が復活しているのをすっかり忘れていた。予約もできるようになったんだね。

吉右衛門さん三回忌追善なんですって。過去のポスターが飾られていた。さみしいね。。

 

今回は『連獅子』目当て。菊之助と丑之助による初の連獅子。これは観なくてはと思っていたのだけど、丑之助(9歳)の左近が鳥肌もので。彼は以前からもはや子役ではないと思ってたけど、教わったことを披露しているというのではなくて、既にちゃんと自分の意志が明確にあり、役を演じていて、表現が伝わる。9歳にして踊りから伝わるのすごくないか。

 

菊之助の踊りが好きなのは、特定に役に限らず全体の印象として、過剰にじめっとしていなくて、やりすぎず、静謐さがあって美しいところ。

連獅子では「親子の情」みたいなのが強調されがちな気がして、でも菊之助はそこをこれ見よがしにはやらない。なかなか登ってこない子獅子が気がかりな親獅子。繊細な表現がとても好みだ。

人間ではなく獅子なのだから、人間が見てそんなにわかりやすく親子の愛情表現とかされたら冷める。菊之助と丑之助は、親獅子と子獅子それぞれの心情は伝わりつつも、親子関係というより、個々の獅子としての孤独のようなものも感じられる。そしてそれは正しいと私には思える。

 

それにしても菊之助がお手本であり先生なのだから、本人のやる気や資質にプラスして、丑之助の踊りが上手くなるのもわかるよな。そしてこの二人、この先一体どんな踊り手になっていくのだろうかと想像すると末恐ろしい。そして楽しみ。

 

『車引』『一本刀土俵入』は、私の気持ちがまったく反応せずあまり楽しめなかった。すまない、心が閉じていて。

 

歌舞伎を観に、これからも行くとは思うのだけど、社会の変化や自分の気持ちの変化、時代の変化など、そういったことによって以前はなんとも思わなかった作品に納得がいかなくなったり、わざわざ見るのどうなんだろうと思ったり、これをエンタメとして楽しむのどうなの?ってなったり、段々折り合いがつかなくなってきている気がする。前からあった気持ちではあるけど、より作品を選ぶようになってきたというか。

 

あと昼夜二部制だと、長いし、観たいのと観たくないののセット売りになったりして、ちょっと考えてしまう。今日も結構空席が目立ち、コロナ禍以前のようには戻らないのかなあと心配にもなった。

ま、私も久しぶりの歌舞伎座だったし、全然支えてないので大きなことは言えないのだけども。

 

追記:幕見で『連獅子』観に行ったよ。あの尊さをもう一度観ておきたくて。なんというか、本当に貴重なものを観た。。。

Maestro(s) (ふたりのマエストロ)

ひさーしぶりの映画館。気楽に観られそうなのを選んでみた。

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映画でもドラマでも、父と息子の関係をメインにしている作品はあんまり多くないと思っていて、私が最近観た映画でも、父と娘(たち)の話が多かった。

そうなると複雑な気持ちになるんだよね。自分に投影してしまうというのもあるし、ケアを期待され、担うのはやっぱり女性なのか、となるので。作り手とって「娘」の方が作りやすいんだろうなーと思っちゃう。

 

しかし本作は違う。父フランソワも息子ドニも、どちらも成功している指揮者。しかしあまり仲は良くない。同じ職業で、互いの才能や成功に敬意や憧れと同時に嫉妬が切り離せない。

そういう、男同士の複雑な心境、妬んだり素直になれなかったり、そういったじめっとした感情にちゃんと向き合ってほしいよね。作り手は。(観客も)

身近な現実世界では父親と息子のぎこちない関係というのはわりと見聞きするので。

 

フランス映画に登場するフランス男は大抵ろくな奴がいないが(笑)、本作もまあそうで、父フランソワの成功した高齢男性らしい傲慢さ、身勝手さ、独りよがりなところなどは、人生のピークを越え翳りを感じていることを差し引いても同情できず、ドニが指揮者という権力を利用しているように見えるヴィルジニとの関係も、なんかなーって思っちゃう。

しかしドニの息子はいい。ここも娘ではなく息子なんだよね本作は。そこは評価する。

 

終わり方もねー、ちょっと安易だよねー。

ま、現実ではありえないことも映画なら、ね。

 

クラシック音楽の世界を取り入れた映画というのはフランス映画では結構あるので、それだけクラシック音楽が一般の生活の中にあるということなんだろうなと思う。

舞台を日本にして、例えば伝統芸能の世界の父と息子で映画を作るとしたら、どんな設定がありえるだろうね?やっぱマンガの映画化っぽくなるんだろうか。

 

 

⒮youtu.be

パリオペラ座バレエ団来日公演≪白鳥の湖≫≪マノン≫キャスト発表

来年の2月の話だけど、4年ぶりとなるパリオペラ座バレエ団来日公演、気になるキャストが発表された。

めっちゃ気になってた!!!そしてめっちゃ悩んでる!!!

 

白鳥の湖

2024年2月8日(木)18:30
オデット/オディール:オニール八菜
ジークフリート王子:ジェルマン・ルーヴェ

2月9日(金)18:30
オデット/オディール:パク・セウン
ジークフリート王子:ポール・マルク

2月10日(土)13:30
オデット/オディール:ヴァランティーヌ・コラサント
ジークフリート王子:ギヨーム・ディオップ

2月10日(土)18:30
オデット/オディール:オニール八菜
ジークフリート王子:ジェルマン・ルーヴェ

2月11日(日)13:30
オデット/オディール:アマンディーヌ・アルビッソン
ジークフリート王子:ジェレミー=ルー・ケール

≪マノン≫

2024年2月16日(金)19:00
マノン:ドロテ・ジルベール
デ・グリュー:ユーゴ・マルシャン

2月17日(土)13:30
マノン:ミリアム・ウルド=ブラーム
デ・グリュー:マチュー・ガニオ

2月17日(土)18:30
マノン:ドロテ・ジルベール
デ・グリュー:ユーゴ・マルシャン

2月18日(日)13:30
マノン:リュドミラ・パリエロ
デ・グリュー:マルク・モロー

2月18日(日)18:30
マノン:ミリアム・ウルド=ブラーム
デ・グリュー:マチュー・ガニオ

 

ミリアムのマノン歓喜!!リュドミラも歓喜!!でもマチアスの名前がどこにもない。。。などの最初の反応の後、さてどの日を買うか、決めなくてはならない。

≪マノン≫の方は、ミリアムとリュドミラは絶対に観たくて、問題は白鳥ですよ。どの日が人気なんだろう。やはり初日ペアの日だろうか。(やはりそう来たかという感じのキャスティング)

というかロットバルトも併せて発表するべきだろうヌレエフ版は!

 

誰の白鳥を観たいか、というのと、どの王子を観たいか、というのと、白鳥と王子の組み合わせと、謎のロットバルトの存在と、でもう私の悩みはどこまでも尽きない。

 

ああ、ミリアムの白鳥も観たかった。パリで観た時、2幕の後、席を立てないほどの感動だった。(王子はマチアス、ロットバルトはカール・パケット)それにミリアムのアデューが近づいている。とにかく観られるだけ観たい。(涙)

 

アマンディーヌの白鳥、『ル・グラン・ガラ』で観て、やっぱりアマンディーヌ好きってなったので観たいんだけど、王子がジェレミーなんですよ。これどういうことなんですかね。意味深。

パクさんとポール・マルクの日はおさえておいて、次をどうするか。悩ましい。

 

NBSに伝えたいことがあるとしたら、ロットバルトのキャストを可及的速やかに出してください!ってのと、ジョゼ監督には、パリオペらしい、フレンチスタイルの踊りをぜひともジャポンの観客に見せてほしい!!!ということです。

 

夏のガラ2つで、「パリオペの良さとは」を再認識したばかりだし、自分が何が好きなのか、何を求めているのかというのが、だいぶはっきりしたんだよね。あらためて。「そうじゃない」というのも含めて。

なので今の気持ちとしてはどちらの演目もファーストキャストを見送ることになりそう。その時になったらやっぱり観ておこうと思うかもしれないけど。

 

それにしても来年の話なのにキャスト出ただけでこんなに話題になり延々と悩むとはな!

さすがパリオペである。(笑)

 

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