アートなしには生きられない

バレエ、ダンス、クラシック音楽、美術館などシンガポール・東京でのアート体験を中心に。

再びの團菊第二部

前回は3階席で、今回は1階の花道近くで見てきた。

 

近くにいたのに智籌のあの静かな出に気づかないほどで、妖気漂う感じがとてもよかったし、菊之助の多様な芸を堪能した。女形での美しさはよく言われることかもしれないけど、凛々しい系の立役も美しいんだよね。声まで凛々しいし。

『土蜘』は舞踊劇でもあるので、それぞれの舞っぷりを見られるのがまたいい。特に菊之助の智籌での踊りがかっこよくてなあ。身分高そうなのにどうも妖しい、同時に内から湧き上がってくるような躍動感。バレエでもそうだけど、内面や技術の円熟とそれを実現する体力のバランスが取れている時期というのは貴重である。

歌舞伎らしさも満載の演目で、例えば美しい衣装、松羽目物の舞台と音楽、踊り、”実は~”という現実離れした展開、蜘蛛の糸の派手さ、など。後見の方たちの”糸始末”も見事。

もっと泥臭いのが好みとか、妖怪度が足りないとか見る側の好みは様々だろうけど、菊之助の個性が出てて私は好きである。

 

cocoirodouce.hatenablog.com

 

さて第二部は『暫』も含まれてるのでこちらも2度目だけど、本当につまらない。なぜつまらないか考えたのだが、海老蔵の『暫』はお芝居・芸を見せる気はなくて、”海老蔵”を見せるためにやってるからだ。芸ではなく、自分の存在そのものに価値がある、と考えてやっている。私の中ではそういうことになった。

私の前列に、見慣れてなさそうな3人組がいたのだが、『暫』を見終えての感想が「迫力はあった」だったのが、そういうことなんだろうなあと。華がある、存在感、目力、などと言われるそれらは、それらだけでは芸を継承してることにはならんだろうな。あの”鎌倉権五郎”は、江戸の荒事の継承をどれくらいしてるものなんだろうか。誰から継承し指導を受けているのか。(100%昔と同じことをやれと言っているのではもちろんない)誰でもあれをやれるわけではなく、まずあの家に生まれなければその場へのルートがない。そういう世界で、その家に生まれた。そこに価値を見出す人にとっては、それだけで価値があるんだろう。

 

愚痴が長くなった。なんか、私は一体何を見せられてるんだろう??とぐるぐる考えながら見たもので。

 

でも劇場からの帰り道は『土蜘』がよかったから後味よかったよ!

f:id:cocoirodouce:20220526132200j:image